【Japanese Military Song】Russo-Japanese War Song Medley/日露戦争軍歌・戦時歌謡メドレー

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≪収録曲順とその解説≫



1.日本陸軍(Japanese Army )0:00

 日本陸軍(にほんりくぐん・Nihon Rikugun)は、作詞:大和田建樹、作曲:深沢登代吉で1904年(明治37年)に発表された日本の軍歌です。

 各番ごとに当時の大日本帝国陸軍の兵科を歌いこみ、1番から10番まで一連の物語となっています。

 曲は「四千余万」(中村秋香)の譜を流用したものとなっていますが、 深沢登代吉は1901年に死去しているためこの「日本陸軍」が出来た時には故人だったということになります。

  輜重兵科の歌は「輜重兵の歌」(作詞作曲共不明)の歌が作られるまでは1937年(昭和12年)まで存在しなかったため、それまでは輜重兵に関してほぼ唯一の歌でした。

 昭和初期から第二次世界大戦の敗戦まで、出征時の壮行歌や凱旋時に必ずと言っていいほど主に1番を中心に盛んに演奏され、歩兵の本領と同じく行軍中にも盛んに歌われた歌で非常に有名です。



2.広瀬中佐(Song of Commander Hirose)1:35

 広瀬中佐(ひろせちゅうさ・Hirose Tyuusa)は作詞作曲不詳の日本の唱歌です。

 軍神広瀬武夫中佐に関する歌は多数あり、そのなかでも最もよく知られているのがこの文部省唱歌『廣瀬中佐』です。1912年(明治45年)に『尋常小学唱歌 第四学年用』上で発表されました。

 1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事した広瀬は、3月27日の第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けてしまいました。

 撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付きました。広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したものの、結局彼の姿は見つかりませんでした。

 やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け壮絶な戦死をとげました。享年35歳という若さでした。

 即日中佐に昇進した後、日本初の「軍神」となり、この歌が作られました。



3.敵は幾万(Thousands of Enemies)3:32

 敵は幾万(てきはいくまん・Teki wa Ikuman)は、作詞:山田美妙斎、作曲:小山作之助で発表された日本の軍歌です。

 元々は、1886年(明治19年)に刊行された詩集『新体詩選』に収録された、「戦景大和魂」という題の8章の詩だったものを、小山が作曲にあたりこれから3章を抜粋して発表されたものです。

 太平洋戦争(大東亜戦争)時の大本営発表の戦勝発表の際、前後で流されたことで有名です。

 歌詞の基となったのは史記の一節にある中国前漢時代の将軍李広の英雄譚という詩です。画家の安野光雅はこの歌を「中国の英雄譚を歌いながら中国と戦争するとは実に奇妙である」と評しています。

 早稲田大学の応援歌『敵塁如何に』や、韓国独立軍の『少年行進歌』(소년 행진가)、東北抗日聯軍の『決死戦歌』(결사전가)などに旋律が流用され、国内外問わず有名な歌となっています。



4.橘中佐(Song of Lieutenant colonel Tachibana)5:28

 橘中佐(たちばなちゅうさ・Tachibana Tyuusa)は作詞:鍵谷徳三郎、作曲:安田俊高で発表された日本の唱歌です。

 この「橘中佐」は、きわめて長大な歌ですが、臨場感にあふれ、リアルに描かれています。それは、作詞者が生前の橘中佐と懇意で、周知の中だったことによるところが大きいとかんがえられます。

 また、明治期の軍歌・唱歌の一般的な特徴として、具体的な描写がされているということもあり、克明に戦場の情景が浮かんでくる歌となっています。

 橘中佐は、本名を橘周太といい、長崎県の出身です。日露戦争の遼陽の戦いで、首山堡の攻撃中に壮絶な戦死をとげました。

 当時、陸軍歩兵第三十四連隊の第一大隊長で、陸軍歩兵少佐でしたが、死後特進して中佐になりました。

 橘周太は以前は名古屋陸軍幼年学校の校長、その前は東宮武官などをしていて、いわば教育者のような人であり、人格円満・教育熱心であり、薫陶を受けて戦死を悼む人が多く、のちに銅像が建立されました。

 橘中佐が大隊長を務めた歩兵第三十四連隊は、のちに通称「橘連隊」と称せられました。

 陸軍の橘中佐と海軍の広瀬中佐は、日露戦争での戦死後軍神とされ、大いに宣伝され、このような歌ができたのです。

 この「橘中佐」が唱歌の中で好きだという人は多く、橘周太が東宮武官のときに直接教育した大正天皇がその一人でした。

5.戦友(Comrade-in-arms)8:07

6.水師営の会見(Meeting at Naval Camp Shuishiying)10:34

7.日本海海戦(Battle of Tsushima)12:06

8.凱旋(Triumph)14:03

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