高倉健がいた街

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高倉健は余りにも有名ですが、ここでは映画の話はありません。有名になってからのエピソードも一切ありません。高倉健、本名小田剛一が過ごした故郷を訪ねます。

余計なテクニックを使わず、、心に込み上げるてくる感情で台詞・動きを表現する。普段どんな生活をして、どんな人と会い、何かに感動し、感謝する生き方が芝居に出る、このような俳優が高倉健でした。監督やプロデューサーを始め、全ての共演者に挨拶し、若い人にも必ず立ち上がって、丁寧にお辞儀して敬意を払うのが高倉健でした。

高倉健は福岡県遠賀郡中間町(現在の中間市)で1931(昭和6)年2月16日 に生まれました。4人きょうだいの次男で、下に2人の妹が居ました。最初のエッセイ「あなたに褒められたくて」のあなたは高倉健の母です。エッセイの中で、「頑固で、優しくて、そして有り難い母だったんです。自分が頑張って駆け続けてこられたのは、あの母(ひと)に褒められたい一心だったと思います。」と書いています。母方の家系には教育者が多く、母も先生でした。

エッセイ「旅の途中で」の「父の涙」の中で、「父はとても体格のいいひとだった。」「父に叱られたという記憶がほとんどない。」とも書いています。父敏郎は16歳で海軍に入り、連合艦隊の相撲大会で優勝し、素人だが亀ヶ嶋という四股名も持っていました。その一方で、新しがり屋で、サイドカー付きオートバイに乗り、ドイツ製のカメラ持っていて、川筋男の一人だった、書いています。

筑豊は遠賀川の流域で、川筋と呼ばれる地域です。江戸時代、遠賀川は度々洪水に見舞われました。遠賀川の水を洞海湾に流す計画を立て、堀川の開削工事を始めました。全長12.1kmの運河が、中断の期間を入れて着工から183年経った1804(文化元)年に完成しました。堀川は灌漑、米や石炭の舟運に使われました。

筑豊の石炭は遠賀川、堀川、江川(遠賀川河口近くと洞海湾を結ぶ)を川艜(かわひらた、別名五平太船)という、底が浅くて広い川舟が使われました。競争が激しく、収入も多いが危険も多いのが船頭稼業です。きっぷの良さと、喧嘩早いが情にもろい、川艜の船頭達の性格を川筋気質(かわすじかたぎ)と呼びました。主役が鉄道に代わっても、大量の石炭を若松に運びました。1938(昭和13)年に川艜は姿を消しました。

高倉健は 2014(平成26)年11月10日、83歳で亡くなっています。亡くなった3年後、小田家の菩提寺、中間市上底井野の正覚寺に、高倉健の記念碑が建てられました。碑には、エッセイ「旅の途中で」の中で好きな言葉とした「寒青」が、自らの書で彫られています。

エッセイの中で、寒青は漢詩の中の言葉で冬の松を表すと書き、「一生のうち、どんな厳しい中にあっても、自分は、この松のように、青々と、そして活き活きと人を愛し、信じ、触れ合い、楽しませるようにありたい。」と書いています。

高倉健の最初のエッセイ「あなたに褒められたくて」の「善光寺参り」の章で、福岡女学院短期大学教授前田淑の手紙に、「あなたのご先祖に、小田宅子(おだいえこ)という女性がいらして、今から約百五十年ほど昔、『東路(あずまじ)日記』という紀行文を残されていますが、ご存知でしょうか」というものでした。

福岡県中間市上底井野交差点の角の家の前に小田宅子生家の跡の石碑が立っています。ここが小田家の本家になります。上底井野村小松屋の小田宅子と芦屋村(現在遠賀郡芦屋町)米伝(こめでん)の桑原久子は、2人とも両替・質屋の商家を、女主人として経営していました。二人とも伊藤常足(つねたり)から和歌の指導を受けていました。1841(天保12)年、歌仲間の2人と2人の女友達に従者3人の計7人で伊勢参りに出発しました。

善光寺や日光へも足を伸ばしました。伊勢から先は通行手形を持たないため、裏を抜ける旅でした。善光寺には二度参っています。宅子は10年後に「東路日記」を書きました。「あなたに褒められたくて」の中で高倉健は、「二度も参詣したその心と、三十数年もお詣りし続けたぼくの心とが、結びついているのだ、とぼくは確信した。」と書いています。

2001(平成13)年、小説家田辺聖子が「姥ざかり花の旅笠―小田宅子の『東路日記』」を著しました。そのあとがきで、先祖が手記を書いているが、面白そうだから、読みやすくならないかと高倉健が頼んでいるのを、人を介して紹介された「東路日記」を手にとり、読み解いていくことになった、と書いています。

1938(昭和13)年、高倉健こと小田剛一は中間尋常小学校に入学しました。現在の中間市立中間小学校です。中間小学校の東側を堀川が南から北に流れています。その北側の西側は北側が中鶴炭鉱の一坑跡地で、南側が中鶴炭鉱の社宅街跡です。地図を見ると碁盤の目のように街路が通っています。中鶴炭鉱の痕跡を現在の中間市で見つけることは難しくなっています。中間市図書館前の中鶴炭鉱偲郷碑で偲(しの)ぶことができます。

1939(昭和14)年、高倉健は小学2年の時、肺浸潤(肺結核の初期症状)を患い1年間休学しました。翌1940(昭和15)年、中間尋常小学校から折尾の本城尋常小学校に転校して2年生をやり直し、1941(昭和16)年10歳の時、太平洋戦争開戦とともに、家族そろって遠賀郡香月(かつき)町(現・北九州市八幡西区香月)に疎開し、池田国民学校4年生に編入されました。

1891(明治24)年、筑豊興業鉄道会社により直方・若松間の鉄道が開通しました。これが現在の筑豊本線の始まりです。この時、中間駅が開業しました。この路線が国有化した後、1908(明治41)年、中間駅から分岐して遠賀郡香月村まで香月線が開業しました。香月線は1985(昭和60)年廃止されました。

高倉の父敏郎は、筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門(1861 - 1947)が経営する中鶴炭鉱や宝珠山炭鉱を所有する大正鉱業の幹部社員でした。労務担当者として人事権を持ち、多くの鉱員を管理していたといわれています。

国道200号飯塚バイパスを南下し、水江交差点を左折して旧国道200号を飯塚市幸袋に行くと旧伊藤伝右衛門邸があります。これは伊藤伝右衛門と歌人柳原白蓮が過ごした邸宅です。水江交差点に戻り、反対側に直進しますと国道211号となり、大分県との境の福岡県朝倉郡東峰村に到ります。

高倉の父敏郎が勤めていた宝珠山炭鉱は東峰村にありました。小田剛一少年は父がいる宝珠山炭鉱に夏休み・冬休みになると兄弟で遊びに行きました。山村文化交流の郷いぶき館は、1933(昭和8)年頃、伊藤伝右衛門邸の一部を移築した炭鉱倶楽部を、2004(平成16)年旧宝珠山村が復元したものです。剛一少年はこの炭鉱倶楽部に泊まったようです。

1943(昭和18)年、父敏郎は若松市(現在北九州市若松区)の港湾運送会社が一つに統合され若松港運になった時、労務担当として伊藤伝右衛門の大正鉱業からスカウトされて、若松港運に移りました。若松港運は戦後解体され、1949(昭和24)年第一港運が設立されました。

明治になると、筑豊の石炭は洞海湾の若松に運ばれ、若松には石炭関連の業者が次々に生まれました。石炭は川艜で運ばれ、鉄道が開通すると、次第に鉄道輸送に移っていきました。国は重工業の発達に力を入れ始めたため、その基礎資材の鉄の需要が高まり、洞海湾岸の遠賀郡八幡村に官営製鐵所を設立し、1901(明治34)年操業を開始しました。このような事態に対処するため、若松港と洞海湾の拡張工事が進められました。若松駅構内は藤ノ木にまで拡張されました。

現在の若松駅の後方にマンション群が建ち並んでいます。この場所は若松駅の操車場跡です。広大な広さです。洞海湾の方に歩いて行きます。海岸の先までマンション群が並んでいます。その先が貯炭場があった藤ノ木です。

1904(明治37)年若松港は特別輸出港に指定されました。石炭の積み込みには艀(はしけ)が使われ、沖仲仕が作業しました。若松港は水深が浅く、帆船、曳船、機帆船、小型汽船が多く、対岸の戸畑港は機械化された汽船積が主力でした。石炭の入ったバイスケ(篭)を前後に、天秤棒を肩に担ぎ、しなる細い板を渡って仲仕が艀に運びました。艀からは、石炭が入ったバイスケを次々と手送りで沖仲仕が汽船に積み込みました。

川艜の船頭達の性格を本来川筋気質と呼びました。このような性格は、多少誇らしげに、遠賀川川筋の筑豊炭田の炭坑夫達や、積出港の若松の荷役作業に携わる仲仕達に引き継がれていきました。義理と人情が、何のこだわりもなく受け容れられる世界でした。

若松駅に近い海岸から赤い若戸大橋の若松側の橋脚近くを若松南海岸と呼びます。かっては、石炭関係の建物が並んでいました。その途中にごんぞう小屋があります。1904(明治37)年~1965(昭和40)年の間、ごんぞう(仲仕)達の詰所として使われました。ごんぞうの語源ははっきりしませんが、仲仕が履いた藁草履からといわれています。

ごんぞう小屋の前に第一港運の本社があります。第一港運の創業時は岡部組です。若松が地元の火野葦平の小説「花と龍」の主人公は葦平の両親で、父は沖仲仕を束ねる玉井組の親分でした。これら組組織がたくさんあるのを、戦時中、若松港運に統合しました。

1944(昭和19)年、池田国民学校から旧制東筑中学(現在東筑高校)に入学します。翌1945(昭和20)年、2年になるとほとんど授業はなく、若松市(現在北九州市若松区)に学徒動員されます。この年の終戦を境に憎しみは憧れに変わります。

米軍基地司令官の息子と知り合い、ボクシングと英語を教えてもらうようになりました。拳闘部を創部し、英会話クラブ「ESS」を発足させました。旧制東筑中学の途中で、学制改革が行われ、新制東筑高校生となり、1949(昭和24)年東筑高校を卒業します。

「あなたに褒められたくて」の「密航」の中で、「東筑中学、高校の一番の親友に敷田稔検事正がいる。」と書いています。敷田稔氏はその後、広島高等検察庁検事長、名古屋高等検察庁検事長を歴任し、退任後は弁護士登録し、海外の名誉教授や博士号を得て、高倉健の死後3年の2017(平成29)年、85歳で亡くなっています。

高倉はボクシングで米軍司令官の息子と知り合い、敷田君は進駐軍のハウスキーパーで英語を喋れるようになっていました。若松港で仕事に就いた父の縁で、高倉はデッキ掃除などのアルバイトをしました。敷田君とも一緒に若松港に来ていました。船を見て、アメリカへのあこがれが募り、密航しょうと企てます。しかし、それは無理だと父の部下の人から言われ諦めます。敷田君は九州大学法学部に入ります。高倉健は貿易商になりたくて、明治大学商学部に入ります。

東筑高校時代、高倉健はボクシンググラブを肩にかけて、香月から折尾まで汽車で通っていました。女学生にはモテていたようです。折尾までは直通がなく中間駅で乗り継いでいました。乗り継ぐ列車を待つ間、他の高校生の間でよく喧嘩が起こり、高倉健は参加していました、と地元の人には伝わっています。

明治大学商学部に入学後、父の希望により相撲部に入りますが、1年で退部します。その後、授業には出ず、盛り場で酒と喧嘩の日々を過ごします。高校時代ボクシングをしていましたので、明治大学ボクシングの学生が友人にいました。その中の一人が飲酒で不祥事を起こしたことで、高倉健は酒を飲まないと決意します。

断酒した訳ではないようです。たしなむ程度には飲み、他の人との食事の際には酒を飲んだとの話もありますので、酒を飲まないように努めたと言えます。その代わり、コーヒーは大好きで、コーヒーは活力の元で、1日に50杯も飲んだと言っています。最悪の酒と喧嘩を経験して、心穏やかな、コーヒーを飲む姿が魅力的な大人の高倉健になっていきます。

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