陽人の法話:死は曖昧である

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陽人の法話:小池陽人の随想録 ~ 死生観について ~

私は、この秋からオンラインで「死生観」を学ぶ講座に参加させていただいています。

この講座は、介護施設「はっぴーの家ろっけん」の代表、首藤さんのお声がけで始まり、毎回様々なゲストが、様々な角度から「生きること」や「死ぬこと」について語り、参加者それぞれが学びを深めています。

この講座が始まる大きなきっかけは、昨年はっぴーの家で行われた入居者の方の葬儀でした。
私は、二百人を超える地域の方がお見送りをしたその葬儀で、導師を勤めさせていただきました。

ご遺族は、はっぴーの家の入居者の方々や故人が最期に過ごした地域の方々に、明るく見送ってほしいと希望しました。首藤さんの呼びかけで、子どもからお年寄りまで、皆ができることを手分けして、手作りの祭壇で葬儀を執り行いました。その中で、印象的な場面がありました。

それは、いつもはっぴーの家に遊びに来る、地域のやんちゃな少年がお焼香をする場面でした。
それを見て、昔は日常の中に死が当たり前に存在していたことを思いました。

昔は隣保制度というものがあり、地域の人たちが、皆で協力して葬儀をだしていました。
今のように葬儀会館はありませんから、ほとんどが自宅で葬儀していたのです。
自宅で葬儀を執り行うとなれば、僧侶の控室や、親戚の控室など、物理的にスペースが足りません。そこで、お隣やお向かいのお宅の部屋を借りていたと言います。

最近では、家族葬などが多くなっていますが、昔は、家族だけで見送ることができなかった為に、ご近所がお互いに助け合いながら見送っていたのです。ですから、子どもには、大人になるまでの間に、自分の家族に不幸がなかったとしても、葬儀というものを何回かは目にする、あるいは関わる機会があったのだと思います。それは、日常の中で、死を感じる機会となります。近所付き合いが希薄になり、またほとんどの葬儀が葬儀会館で行われている現代では、そういった機会が失われているのではないでしょうか。

「死を考えることは、生を考えることである。」ということを、講座の中で何度もいろんな方から聞きました。確かにそれは真実だと思います。

お釈迦様は、「生きることの苦しみを自覚せよ。それが悟りへの第一歩となる」とおっしゃいました。

生きることの苦しみを、仏教では四苦八苦という言葉で表します。その中でも最大の苦しみは「死」ではないでしょうか。人は必ず死ぬ、と誰もが知っています。しかし、普段の生活では、
なるべく死を遠ざけて、考えないようにして生きています。しかし、死を遠ざけて生きているうちは、生きることの本当の有難さ、尊さというものは分からないのかもしれません。

身内の不幸がないかぎり、日常生活の中で人の死に関わらないことが多くなってきていると思われる現代で、死について考えること、死生観を学ぶ意義は大きいと感じました。

第四回目の講座は、医師の紅谷浩之先生「医療×死生観」でした。紅谷先生は、医師になって三年目に、病院の医師から在宅医療の医師となられたそうです。病院で学んできた「死」のとらえ方がそこで覆されたと言います。病院時代には、心臓が止まったその一点を「死」だと捉えていたのが、在宅医療では、「死」にはもっと幅があり、「あいまい」なものだということに気づかれたのだそうです。

ここで、紅谷先生からお聞きした二つのお話をご紹介します。
一つは、ある末期がんのお婆さんと認知症のお爺さんの二人暮らしの在宅医療をしていた時の話です。お婆さんがいよいよ息を引き取りそうな時に、お爺さんが、お婆さんの顔を撫でながら
「まるで生きてるみたいじゃ」と言いました。

ご家族と看護師さん皆で「まだ生きてるわよ! お爺ちゃん、何言ってるの!」と言ったそうです。しかし、それを見て紅谷先生は、呼吸はしているけど、二度と目をあけない状態のお婆さんは、お爺さんにとっては死んでいるということなんだなと感じたそうです。心臓が止まるその時を「死」と捉えている自分たちよりも、認知症のお爺さんのほうが素直な反応に思えたそうです。

もう一つのエピソードは、終末期の患者さんをずっと支えてこられた訪問看護師さんから、
ある朝電話がありました。「先生、いつも通り午前中にお風呂に入れる約束を患者さんとしていて、お風呂に入れたいのですが、いつもと様子が違うので見に来てくださいますか」と言われ、
紅谷先生はお宅へ伺いました。

部屋に入った瞬間にその患者さんが息をしていないことに気づかれたそうです。
看護師さんは先生に「先生、来てくださりありがとうございます。○○さんお風呂をすごく楽しみにしていたのでお風呂に入れていいでしょうか。」と聞いたそうです。

先生は、看護師さんに「でもこれって、、」と言いかけると。「はい、そうなんです。でも生きているうちにお風呂に入れてあげたいんです。」同じ問答を3回繰り返して、その意味を悟った紅谷先生は、ご家族に「病院であれば電極などをつけて、脈を確認しますが、ここではそれをしません。生きているか亡くなっているかあいまいな状態ですので、生きているうちにお風呂に入れたい看護師さんに、予定通りお風呂に入れてもらいます。私はいったん帰り、夕方もう一度来た時に、呼吸と脈が確認されていなければお看取りとさせていただきます」とお伝えしたそうです。

お話を聞いて、「死」とは、心臓が止まる一瞬のことではないのだと感じました。
半年以上、介護を続けてきたご家族で、自分が買い物に行っている間に親が息を引き取ってしまい「死に目に会えなかった」と嘆く方がいらっしゃると言います。その時に、紅谷先生が、「介護してきた日々がそのまま『死に目』ではないですか。」とお伝えすることで、そういった方も、息を引き取る瞬間に立ち会えなかったことを後悔する必要はないのではないかと、安心されることが多いそうです。

私は、亡くなった後の四十九日までの中陰も同じだと思います。人間は一度に大きな悲しみを引き受けることができないために、時間をかけて死を受容していきます。心臓が止まるその瞬間を死と捉えずに、「死」に幅をもたせていくことが大切だと感じました。生前の介護や没後の中陰などの仏事には、その方との繋がりを深め、残った者がその死を通して、生きることを豊かにしていく意味があるのかもしれません。

【毎月、須磨寺にて法話をさせて頂いております】
毎月18日の10時からの護摩祈祷と写経会、20日と21日は11時半から奥の院にて、そして、21日は14時から護摩祈祷をさせて頂き、法話をさせて頂いております。

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■楽曲提供:小馬崎達也
Official site:http://www.mt8.ne.jp/~pangaea/
Youtube Channnel:   / pangaeamusicfarm  

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