増沢末夫/ さらばハイセイコー1975.1Sueo Masuzawa

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松原愛の歌唱作品や十和野あいの楽曲、山田孝雄の楽曲を紹介するチャンネルです。
作詞小坂巌/山田孝雄 作曲猪俣公章

1974年12月15日ハイセイコーの引退レースとなる有馬記念当日。
控室に待機していた私たちは、作詞の山田孝雄、山田の上司である
ポリドールの松村憲男ディレクター(作曲家むつひろし)ハイセイコーの歌を
増沢末夫ジョッキーに歌わせようと企画した私の所属事務所の社長である
井尻新一(エイコー企画)とプレゼンテイターの松原愛と新人のアイヌの女の子だった。

ハイセイコーが2着までに入線したら、『さらばハイセイコー』を流すという
約束をフジテレビとしていた。
ドキドキしながら固唾を飲んで、
皆で見守った。
タニノチカラがぶっちぎりで優勝したにも関わらず、
カメラはハイセイコーを捉えていた。
そして歌は流れた。

山田孝雄は当時労務作家という立場であった。
競馬実況のアナウンサーの小坂巌氏の詞を直すように云われたが、
ハイセイコーという言葉だけを残し、
自分で書き上げたものだった。
この時、小坂巌という名前が必要だったからに他ならない。
補作詞ということがどういう意味かも知らずに書いた。
この楽曲は、作詞の小坂氏はJASRACに
登録していない為、なんと著作権印税が発生しなかったのである。

これを機に山田は、出版社を退社し、
作詞家として身を立てる決心をした。
そして、この後すぐに泣かず飛ばずの『昭和枯れすすき』が
突然の大ブームとなるのである。
今だから話せる飛躍のためにあった
『さらばハイセイコー』なのです。

2000年5月ハイセイコーが亡くなったとの第一報は、東京競馬場で知った。
ターフビジョンに、懐かしい引退式の写真が映し出されたのを
不思議な気持ちで見ていた。写真に映し出された若き頃の私がいた。
真っ白なドレスを目に焼き付けた。
当時橋口弘次郎調教師も東京競馬場で同じ映像を見て、
『愛ちゃんがプレゼンテイターやったんや』と驚いていた!

そして20年以上が経ち、今も多くの人達に歌われている『さらばハイセイコー』
は私たちにとって大事な競馬のバイブルであり、二人を結びつけてくれた
キューピットは、ハイセイコーだったという事実なのです。

『さらばハイセイコー』作詞 山田孝雄

誰のために 走るのか
なにを求めて 走るのか
恋に別れが あるように
この日が来るのが恐かった
ありがとう友よ さらばハイセイコー

栄光目指し まっしぐら
逃げろよ逃げろよ捕まるな
愛の右ムチ 打ちつけた
恨んでないかいこの俺を
ありがとう友よ さらばハイセイコー

幾十万の 観衆に
真ごころ見せた その姿
哀しいだろう 辛かろう
たたかい終わって馬場を去る
ありがとう友よ さらばハイセイコー

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