【4K】令和4年 唐津くんち 14番曳山 七宝丸 江川町 総集編‼️

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明治9年1876年制作・ 十四番曳山「七宝丸」 (しちほうまる) 江川町(えがわまち)
よ組 の 内町の西北端に位置する名護屋門口は巡見道や通称太閤道と後に呼ばれるようになる名護屋道の起点となる出口で、ここからは南に向かうと平戸道、北に向かうと呼子道となる。門口からすぐは坊主町の町筋で北側を上って西続きの横町筋が江川町である。江川町は組屋敷の町とも呼ばれ、当初は下級武士の居住区域であり、江戸期当初の正保絵図には見られず、領内交通の発達にともない大久保時代以来、町屋が形成されたと考えられる。

現在でも藩政時代の町並みがしのばれる数少ない通りである。東西に続く通りは周辺に対して小高い地形であり、かつての砂丘を造成した道となっていて、かつて裏坊主町と呼んだ縦町筋との交差点である東寄りの場所は「高見」とか呼ばれたという。造り酒屋「酒井屋」こと藤生家は江川町第一の豪商である。江川町は呼子街道沿いの町として明治中期に栄え、多くの商家が通りにあった。水野時代には松浦岩沖右衛門という相撲取りも住んでいたし、藩のお抱え絵師であった長谷川雪塘も廃藩後に住んだという。

文化年間の記録による町の規模は、68軒、263人と大きい。呼子街道沿いで唯一の曳山が十四番山「七宝丸」である。二台ある船形のひとつで、明治九年(1876)の制作である。かつて「蛇宝丸」とも呼ばれた。江戸時代に流行した宝船に竜頭の絵柄があり、朝鮮通信使の船にもよく似た船の絵があったため、題材に選ぶ際に宝をもたらす船のイメージがあったものと思われる。曳山の神幸行列の順番は、その制作年代順となっているが、水主町の「鯱」と江川町の「七宝丸」は同じ明治九年に作られている。

このためにもどちらが先かで水主町を支持するもの、江川町を支持するものに分かれ、他の町を巻き込んでの争いがあり、いわゆる「七町組、八町組の争い」と後に言われるものである。結局、仲裁を受け「約定書」が作られた。この時の仲裁役を務めた大石町神社がこの後に神祭行列に加わったともいわれている。外観は 六番曳山「鳳凰丸」と同様に船形を本体とした曳山で前面の船飾りは中国の伝説上の生き物である龍の頭部を制作している。船形には火炎を装飾する笠の火炎が特徴の屋台がある。


この曳山本体には1.宝珠、2.軍配、3.打ち出の小槌、4.隠れ蓑、5.宝袋、6.丁子、7.一対の巻物の七つの宝をもっている。制作年は 明治九年(1876年)制作者細工人:宮崎和助 塗師:須賀仲三郎 工棟梁:田中市次正信 曳山内屏風の絵師:武谷雪渓(唐津藩絵師)制作時の背景は 明治九年(1876年)に「七宝丸」が制作される際に題材を選んだ理由について、町には曳山制作関係者が大石町在住であったので、大石町の曳山と対になる船形となったという話が残っている。

確かに、大工棟梁田中市次正信や曳山の上部にある屏風絵を描いた唐津藩絵師武谷雪渓は当時、大石町在住の人物である。平安時代の龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船形を基にし、江戸時代に庶民の間に流行した七福神の乗る宝船によく似た姿になっている。江戸時代中期に対馬の版元が江戸で印刷した朝鮮通信使の船の図柄には竜頭の格好などによく似たものがある。いずれも宝をもたらす船として庶民の心に残っていたのかも知れないものである。

七宝丸は宝珠、軍配(ぐんぱい)、打出(うちで)の小槌(こづち)、隠れ蓑、宝袋、丁子(ちょうじ)、一対の巻物といった七つの宝をもつことから名づけられたものといわれるが、かつては「蛇宝丸」と呼ばれていた。唐津市ホームページより 記事内容は「唐津曳山記録保存報告書」(唐津市教育委員会刊行)を基に唐津曳山取締会から提供を受けた資料を参考に掲載しています。生涯学習文化財課 

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