江戸東京写真帳111 駒込吉祥寺・上田端八幡神社・旧古河庭園・平塚神社・西ケ原一里塚

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散歩写真スライドショー、白山駅から歩く。鶏声ヶ窪、龍光寺に行って見る。本郷通りに出て、天栄寺前の青物市場跡の標石を見る。本郷通りに沿って、#南谷寺、赤目不動堂 を見る。養昌寺に入って、半井桃水墓を見る。#本郷吉祥寺 の山門から入って、広大な墓地に川上眉山、二宮尊徳の墓を見る。榎本武揚の墓を探す。経堂は修繕工事中だった。隣の洞泉寺に行く。一般の住宅のようだった。吉祥寺に戻って、#鳥居耀蔵の墓 を探す。#駒込富士神社 に行く。小山になっている。本殿を廻って、山を下りて、周辺から見る。本郷通りから離れて、#駒込天祖神社 に行く。子育地蔵尊から、本郷台地の坂を下りて、不忍通り、谷田川跡、商店街を横切って、上野台地の段丘崖の#上田端八幡神社 、#大龍寺 に行く。#正岡子規の墓 を見る。湘南新宿ラインの線路を見て、山手線の第二中里踏切を横切る。本郷通りの大炊介坂を上がって、#旧古河庭園 に入る。邸宅、洋式庭園を見る。馬車道を庭の奥下(上野台地から谷田川方向)へ下りる。日本庭園の池を廻り、また台地に上がる。大谷美術館(邸宅)は撮影禁止だった。本郷通りに沿って、#平塚神社 に行く。甲冑塚を探すが、裏手はスカウト活動の拠点になって、封鎖されていた。階段を下りて、蝉坂に出る。上中里駅の跨線橋に行って見る。蝉坂を平塚神社に戻って、#西ヶ原一里塚 に行く。大榎の間を本郷通りの上り車線が貫く。#七杜神社 に行って見る。渋沢栄一縁であった。木陰で休むが、カメラの電池がなくなってしまう。一里塚に戻って、西ヶ原駅から帰る。
 #駒込土物店跡 、天栄寺(門前、本郷通り交差点一帯)、神田、千住ともに、江戸三大市場の一つ、幕府の御用市場であった。起源は、元和年間(1615-24) 。近郊の農民が、野菜を担いで江戸に出る途中、天栄寺境内の「さいかちの木」の下で休む。付近の人々が、新鮮な野菜を求めて集まったのが起りという。土地の人々は「駒込辻のやっちゃ場」と呼んだ。また、富士神社一帯は、駒込なすの生産地、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜「士物」が、取り引きされ、土物店ともいわれた。名は「駒込青物市場」、昭和4年(1929)から、「駒込青果市場」と改称した。街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(駒木小学校)に集結したが、道路の拡幅で、昭和12年(1937) 豊島区へ移転して、巣鴨の豊島青果市場となった。
 大聖山南谷寺、天台宗。元和年間(1615-24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開いた。寛永年間(1624-44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒、目白不動に対し、目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えた。江戸の五色不動の一つとなる。
 繁栄山養昌寺、曹洞宗。元は本郷湯島天神台にあり、天和3年(1683)現在地に移った。半井桃水の墓がある。半井桃水、万延元年(1860)-昭和元年(1926)。対馬に生まれ、桃水は号。共立学舎に学び、明治21年(1888)東京朝日新聞社に入社し、新聞小説作家として活躍した。「天狗廻状」「胡砂吹く風」などの時代小説を著した。桃水は、樋口一葉の師として、また思慕の人として知られる。
 諏訪山吉祥寺、曹洞宗。1458年(長禄2)に太田道灌の開基、江戸城内に、青巌周陽を開山に創建した。道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得て、室町時代、青巌を請じて、西の丸に建立した。山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。徳川家康の関東入府にともなって駿河台(都立工芸高)に移り、明暦の大火と江戸大火によって、駒込の地に移転した。譜代大名、旗本の江戸の菩提寺であったことから、松前氏広など、当寺に埋葬されている事例もあり、新庄家など、無縁状態の墓所が多く、今後、整理される可能性がある。関東大震災後の墓石の整理で、大名や旗本などの古い墓石の多くが、打ち捨てられている。
 旃檀林学寮、江戸期に、境内に駒澤大学となる学寮「旃檀林」が作られ、卍山道白が規則を制定して繁栄し、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。多くの学寮、寮舎を備え、常時千人余の学僧がいた。教科目は、内典(仏教)と外典(漢学)、僧侶以外でも、寺院に縁故のある旗本の子弟、寺侍が聴講した。寺堂は七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、わずかに山門(1802年造)と経蔵(1804年造)が残った。
 榎本武揚、1836年〈天保7〉-1908年〈明治41〉、幕末、明治期の武士(幕臣)、海軍軍人、政治家、外交官。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争で旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、蝦夷共和国の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏後、2年半投獄されたが、敵将、黒田清隆の尽力により助命、釈放され、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太、千島交換条約を締結した。外務大臣、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣など歴任した。
 鳥居耀蔵(ようぞう)、江戸時代の幕臣、旗本。 残された日記や詩文から、耀蔵は自分を退けて開国したことが、幕府滅亡の原因であると考え、当時流行した洋風軍隊や民衆の軍事教練に批判的な目を向けている。これらの軍制改革は、武士中心の軍事制度、幕府を含む封建制を否定するものといった。最晩年、「自分は、幕府に外国人を近づけてはならぬ、その害は必ずある。誰も耳を傾けなかった。だから幕府は滅んだのだ。」と傲然と言ったという。頑迷な人物であった事がわかる。「蛮社の獄」により、多くの人材を失ったが、実行に際して耀蔵なりの信念を持っていたと考えられる。上司、水野忠邦への裏切りや同僚、矢部定謙への讒言など、評価を下げているが、政敵やそりが合わない者に対する敵意、憎悪はすさまじい。阿部正弘の訃報を聞いた折に「快甚し」と日記に記述している。遠山景元(遠山の金さん )は、当時の江戸庶民の人気と同情を集め、遠山は善玉、鳥居は悪玉の図式ができ上がった。後に講談や小説、映画やテレビドラマで人気を博することになる「遠山の金さん」の素地、悪役としての鳥居のイメージができ上がった。 儒学者の家に生まれ、詩をよくした。
「東京」
 交市通商競イテ狂ウガ如ク、誰カ知ラン故虜ニ深望アルヲ、後ノ五十年須ラク見ルヲ得ベケレバ、神州恐ラクハ是レ夷郷ト作ラン
(現代語訳)人々の行き交いも商業も狂ったように競っている。誰が知るだろう、過去の罪人(耀蔵)の考えを。五十年後の未来を予想できるならば、日本はおそらく野蛮人の国となっているだろう。
 富士神社、富士山に見立てた富士塚の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つ。「お富士さん」の通称で親しまれた。天正元年(1573)、本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、東京大学の地に浅間神社の神を勧請した。寛永5年(1628)、加賀前田氏が上屋敷(明暦の大火以降)を賜り、浅間社を現在地に合祀した。江戸後期に「江戸八百八講、講中八万人」といわれるほど流行した富士講のなかで、最も古い組織の一つ、町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消の纏(まとい)を彫った石碑が数多く飾られる。縁日の山開き(6月30日-7月2日)で土産の駒込ナスが名物だった。塚は、前方後円の古墳といわれる。
 不忍通りは、目白台2丁目の交差点から上野公園前交差点付近まで。
 都電は、1903年(明治36)、(通称)都電上野線が開業した。須田町から万世橋、外神田三丁目を通って、上野駅へ向かう路線であった。途中から不忍通りを走り、神明町車庫が、現在の本駒込4丁目に、跡地は公園になっている。都電上野線は、1972年(昭和47)に廃止され、以降、都電は荒川線のみとなった。
 谷田川、北区西ヶ原の旧外東京語大学敷地、豊島区駒込の染井霊園にあった長池を水源とし、飛鳥山上野台地と本郷台地との間の谷を南東に流れ、上野の不忍池に注いでいた。不忍池から、忍川となって、東京湾に注いだ。かつて石神井川の流路だったが、飛鳥山で台地を横切って低地に出る流路になった。これは河川争奪による人工的な開削だったと云われる。また下流部で藍染川と呼ばれた。谷中のへび道も藍染川の暗渠である。大正中期、洪水対策として、西日暮里で分流し、三河島方面へ排水路もできた。大正後期から暗渠化が始まり、昭和初期に、全区間が暗渠となった。
上田端八幡神社、北区田端にある八幡神社。鎌倉幕府が奥州藤原氏を滅ぼした後、当地の豪族豊島氏を奥州奉行に任じたことから、戦勝の紀基として、鎌倉鶴ケ岡八幡宮を当地に勧請した。境内社の白髭神社は、争いの杉の伝承を伝える。この辺りに、争いの杉と呼ばれる神木があった。木の高さ、二丈五尺(約8m)余、幹の太さ、九尺(約3m)位、遠くから望むと松の木にも見えた。奥州平泉の源義経を討伐に向かう途中の畠山重忠が、家来と松の木か杉の木かと争ったという伝承から「争いの杉」という名称で呼ばれた。また、太田道灌の「争いの杉」であるという、室町時代の伝承を述べる記録もある。
 西ケ原二丁目貝塚は、荒川谷に臨む台地に積成された貝塚である。上野不忍池から入り込んでくる狭い支谷に臨む西ケ原一丁目、三丁目に、昌林寺貝塚がある。西ケ原一帯の地形は、東側は崖地で海に接し、西側は「谷戸」があり、原始集落の好適地であった。
 中世の西ケ原は、平安後期、関東を支配した源家の勢力下で、西ケ原一帯の豪族は、豊島氏、後三条天皇の頃(1070)、豊島太郎近義が城を築き「平塚城」と称した。東京市役所の「東京案内」に「平塚城址、豊島氏累代の居城也。北豊島郡滝野川村上中里、城官寺の辺、其処なるべし、城官寺の背後高隆にして、傍に蝉坂、外輪橋、角櫓などの小名あり」。平塚神社、城官寺(平塚神社の別当寺)、蝉坂は現存しており、付近の地形からも平塚城のかつての光景を想像できる。文明9年(1477)太田道灌が長尾景春の大将として、駒込妙義神社に陣を置き、平塚城の豊島泰明(泰経の弟)を攻めた時、石神井城から迎撃して来た豊島泰経との決戦となった。谷戸川を挟んで、妙義神社は本郷台地の北側。合戦は豊島勢の石神井城と平塚城ともに陥落し、翌10年(1478)、四百年も支配し続けた豊島氏は壊滅、太田道灌の手に移った。正保4年(1647)の西ケ原は、「岩淵領西ケ原村」と呼ばれ、野菜の生産畑であった。慶長8年(1603)、江戸幕府は、日本橋を起点とする五街道を決め、川越街道や岩槻街道(日光御成道、本郷通り)などが、整備された。
 平塚神社、奈良時代まで、当地は荒墓郷と呼ばれた。「平塚」の地名の由来とされる塚は、社殿裏にあるが非公開。北区によって「甲冑塚古墳」とされる。 「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」に、かつて豊嶋郡の郡衙があった。平安時代、秩父平氏豊島近義が、城館(平塚城)を築いた。平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)の三兄弟が、逗留し手厚いもてなしを受けた。義家は、感謝の験として鎧一領と十一面観音像を下賜した。近義は、鎧を城の守り本尊として、塚を築き埋めた。「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれ、塚が平たかったため「平塚」とよばれた。
 蝉坂、明治初期の「東京府志料」に、「或云(あるいはいう)攻坂(せめざか)ノ轉訛(てんか)ナリト」、室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿とさせる坂名の由来が記される。
 西ヶ原一里塚、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚。徳川時代に設置されたままを留めており、都内で貴重なものである。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになったが、実業家、渋沢栄一を中心とする地元住民の運動によって保存された。
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