①死について聞きたい【この世のものが光を失うのが死・後生暗い心に気づいてから仏教は始まる・私の心を明るくするものが善・善をして自分は善人だと思って死んでいきたい】【令和6年9月20日】上田祥広

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1️⃣🟨①死について聞きたい【この世のものが光を失うのが死・後生暗い心に気づいてから仏教は始まる・私の心を明るくするものが善・善をして自分は善人だと思って死んでいきたい】【令和6年9月20日】
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【1️⃣質問】

死について聞きたい。

【1️⃣回答】

死とは何か?
私達は死ぬと聞くと恐ろしくなり、恐ろしく感じる。恐ろしく思って不安になる。
それは、どうしてなのか?
私という存在がいるとすると、私というのは、この世のあらゆるものに我をつけている。

たとえば、自分の持っているお金、自分の家族、自分の家、自分の持ち物、そして職場での立場、もしペットを飼っていたら、ペット。車を持っていたら、車など、あらゆるものに我々は、我をつけて、それを明かりとしている。

明かりとするのは、そういうものには価値があるから、自分は価値のある存在だと思う。
私達は無意識のうちに、自分の存在を価値のある人間というところに立たせている。

なぜ価値があるのか?
それは価値のあるものを持っているから。

だから、価値のあるものがあるから、私は価値のある人間だと思って安心しているのです。

全ての人間は、この世のものに価値を置いて、それを自分のものにすることによって、価値のある人間というところに立っています。

🟨そういうものを持っていない人の我はどうなっているのですか?

持っていなくても、自分には地位があるとか、正義があるとか、を価値として生きている。

たとえば、出家をしている人は、何も持っていないけど、
「自分はこんな修行をやったんだぞ!」というものを価値として、自分の明かりとしている。

🟨路上生活者は何に我をつけているのですか?

路上生活者というのは、かつて自分が手に入れた価値を明かりとして、それを失ったという事実を認められずに、路上生活者になっています。
だから、今は持っていなくても、昔は持っていたんだ、というものに執着していたら、失っていても、失ったということが認められずに済む。

だから、私達は死を考えると不安になるのは、自分の心の明かりとしていたものが、死ぬと全て置いていかなければならないものなんだ、ということが分かるからです。

だから、普通の人は死を考えることはしません。なぜかというと、死を考えると心が暗くなるから、明かりがなくなるからです。

その明かりとしていたものが、死を目の前にすると光を失う、明かりとはならず、暗くなる。

🌟だから、仏教とは死について考えなさいと教えられます。

🌟なぜ死について考えることが大事なのか、というと今、自分が明かりとしているものは、死を目の前にすると、何の価値もないものだということが知らされるからです。

その時になって、何も明かりがないとなって、苦しむよりは、生きている時に明かりを失って、
🌟モノとは違う、地位とは違う、明かりを求めなければならないというふうになることが大事なのです。

この死を目の前にして、明かりがなくなる。心が後生暗い心。死を目の前にすると、心が暗くなる。

暗いとは、何の価値もない自分になる、ということです。
🌟その暗い心を解決することが、人生の目的になります。

だから、本当に死について考えたら、暗くなります。
なぜかというと自分が今、明かりとしているものが、光を失うからです。

🌟仏教という教えは、この後生暗い心に気づいてからが、本当の求道聞法の始まりなのです。

そうすると、死によって、この世で得たものは全て失っていかなければならない、ということが分かります。

🌟全て失っていくことが分かった時に、私の心を明るくさせるものは何か?ということです。

🌟それは善なのです。ここが大事なのです。

私達は仏教を学んで、善をしなさい、善をしなさいと善をすれば、善果が得られますよ、と聞いて、善をしている。

私達が善をするのは、たとえば、
🟨善をすれば、認められるから、
🟨善をすれば、お金が入るから、
🟨善をすれば、地位が得られるから。
🌟結局、今、私が明かりとしているものを得るために善をしてしまう。

✡️でも本来、善をするのは、その善自体に、心を明るくする力があるからなのです。
✡️だから、仏教で善をするのは、善果が欲しいからではないのです。
✡️本当に自分は善をして、善人なのだと思って、死んでいきたいからなのです。

✡️善というものを心の支えにして、心の明かりにして、生きていきたいからです。だから、善をするのです。
✡️善をするのは、心の明かりのためなのです。

🌟でも、それは、後生暗い心に気づかないと、分からない。
今、自分が明かりとしてしているもの、とは価値です。
🌟自分が価値を明かりとして置いているものが、死んで持っていけないんだ、と知ることが大事なのです。

何一つ死んだ後には持っていけない。でもそれは、
✡️「ああ、自分って、本当に死ぬんだなあ」ということが分からないと、何一つ持っていくことが出来ないと分からない。

🌟自分の胸に手を置いて、考えた時に、何を安心の材料としているかを考えて欲しいのです。

✡️その安心の材料は、多くの人にとっては、お金なのです。
🟨自分にはお金があるから、また
🟨家を立てた人は、家があるから、地位があるから、ということで安心しようとしているのです。

✡️その自分が安心のしようとしているものは、死ぬことによって、全て置いていかなければならないものなのです。

そう考えた時に、
🌟「ああ、自分って、自分の心を支えてくれるものが全部置いていかなければならないものなのだなあ」ということに気づいて頂きたい。

何一つ、死んで持っていくことは出来ない。自分の胸に手を当てて考えた時に、その置いていかなければならないものがあるから、安心だと思っている。
🌟この誤りが破れないといけない。

✡️仏法を実践していこうとするのは心を明るくしたいから。
その仏法を実践するのは、心を明るくしたいからなのです。

🌟既に価値のあるものを手に入れて、明るくしている人は、心を明るくしたい、という気持ちが分からないのです。

だから、善をしなさいといっても、善果という価値が欲しいから頑張る、となる。

ここが仏教が分からないところななのです。

✡️心を明るくするために善をする。自分は、善をして自分は善人なんだ、と思いたい。

✡️心から自分は善人なんだ、と思いたい。それを自分の心の支え、心の明かりにして生きていく。

✡️「ああ、私は素直な人間なんだ、私は人に施しをしていくんだ、人に善をしていくんだ」
そうやって心を明るくさせたい。

✡️この心を明るくさせたい気持ちで、善をした時に、自分の心の中の醜い心の中が見えてくる。

醜い心が、こんな心で善をしても、本当に自分の心を明るくしてはくれない、となる。心の底から、明るくしたい。

🌟仏教を実践していくのは、心を明るくしたいからなのです。
心を明るくしたいから、善をするのです。

✡️後生暗い心を明るくするために善をする。そうやっていくと見えてくるもの、何で心が暗くなるのか?
🌟それは疑情なのだ、と分かってくる。

✡️私は、なぜ善に、価値に縋るのか?それは価値がない自分は此処に居てはいけない、見捨てられると思っているからです。

🌟この時に、二つに分かれる。

1️⃣この見捨てられるという心を善知識に話をして、受け止めてもらって
🟨「私は見捨てられない人間なんだなあ」ということを少しずつ理解をしていって、救いを求めるか。

2️⃣それとも、自分の心を支えてくれる人がいない人は、それでも
🟨善を明かりとして生きていくようになる。だから、
🟨真の善がしたい。心からの善がしたい、というふうになる。

✡️だけど、心からの善に励めば励むほど、心からの善が出来ない。
✡️だから、一生懸命に善を励めば励むほど、心が暗くなる。
✡️この暗い心を何とかしたい。
明るくさせたい。
✡️明るくさせてくれるような善はないか、その善を求めるようになる。

🟥🌟そうやって、この世の私の努力では、どうやっても私の心を明るくさせるような善は出来ない、ということが心の底から、知らされた時に、阿弥陀仏の救いがある。

🟥🌟この後生暗い心を、一念で破って頂く。

🟥🌟でも、これは善が当て力にならないと知らされても、それでも善に励むような人でないと、阿弥陀仏の救いには遇えない。

私は今まで、そんな人をあまり見たことがない。だから、普通の人には求めきれない道ではないかと思ってしまう。

🌟善をやっても、心は暗い。暗いけど、何か善はないだろうか?
私の心を明るくさせてくれるような善はないだろうか?
🌟善を求め続けていく心は、並大抵の人にはない。
🌟普通の人は、ちょっと出来ないとなると、もうダメだ、となる。
どれだけやっても自分はダメだ、となって、自分で自分を見捨ててしまう。

それを善知識が話をして、もう一度、頑張っていこうじゃないか。
🟨「大丈夫、あなたのことを見捨てない。どんなことがあっても見捨てないから、安心して下さい」となった時に、
🟨「ああ、私には、善知識がいる。善知識を明かりとして、善知識の言われた善を実践していこう」となって、進んでいく。
🌟これは、これで救われます。

🌟🟥だから、私は阿弥陀仏の救いだけが全てではないと思っています。

実際、阿弥陀仏に救われるためには、何も支えてくれる人がいない状態が必要なのです。

逆にいうと、そうでないと阿弥陀仏に救われることはないのではないか。

なぜかというと、善知識がいたら、心を支えてもらえるからです。

本当に阿弥陀仏に救われようと思ったら、自分の心を支えてくれる人は、誰もいないという状況が必要なのです。

でも、普通はそういう状況になると、善をしようとは思わない。
諦めてしまう。何をやってもダメなんだ、と思ってしまう。

たとえ善知識がいたとしても、こんな醜い心、汚い心、恐ろしい心を自分にあることを知ったら、善知識は見捨ててくるんでないか。

🌟弥陀に救われる人は、どういう人かというと、この醜い心、汚い心、恐ろしい心をどうにかしてなくして、心から明るくなるような善がしたいと思う。
🟦🟨【急作急修して、頭燃を祓うが如くすれども】〖親鸞聖人・善導大師、また初期経典にもあり〗

でも普通の人は、そういうものを見た時に、もう自分で自分を見捨ててしまう。もう頑張ることが出来なくなる。

🌟だから、私達が救われるための王道は疑情を晴らしていく道です。

🟨死をどれだけ見つめられるか、
🟨どれだけ自分の手に入れたものが、死ぬ時には置いていかなければならないことを知るか、ということです。

🟨それが分かって、始めて自分は心が暗いんだなあ、と分かってきます。
自分の心を明るくさせるものが欲しい。明るくしたいと思うようになる。
後生暗い心に気づくようになる。
🌟その後生暗い心に気づいて、始めて善に励むようになる。

死を見つめることは、凄く大事なことであり、後生暗い心に気づくために、死を見つめることは大事なことであります。

 【一旦、終わり〖続き2️⃣へ〗】

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