我ながら引いた...(笑)ママの竹宮恵子先生関連の切り抜き【70年代の文化と出来事を語る!番外編】

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動画をご覧いただき、ありがとうございます。
少々長くなりますが、動画内で語れなかった事について書こうと思います。

中学〜高校くらいの時に竹宮惠子先生にはまりましたが、その後あまり読まずにいました。
今回の動画を編集するにあたって、当時知らなかったことをたくさん知り驚いています。



竹宮惠子先生が好んで描いている、クラシック音楽の世界の人達の作品ですが、これらの作品には増山法恵さんという方が大きく関わっています。…と言うより「竹宮惠子」という漫画家の存在そのものに関わっていると言っても過言ではないと思いました。

増山さんはもともとは萩尾望都先生のペンフレンドですが、萩尾望都先生と竹宮惠子先生が一時期大泉で共同生活をしたり、それが「大泉サロン」と呼ばれた少女漫画家の集まる場になるなどのきっかけを作った人で(この時点で増山さんはまだ十代だと思います。すでにプロデュース能力がすごい!)音楽、美術、映画、文学などあらゆる文化、芸術に詳しく、竹宮先生は増山さんとその友人らの集まりに同席してクラシック音楽の知識を得たり、作品のイメージが膨らむような話を聞いていたようです。増山さんの影響で頻繁に映画館に通うようにもなりました。

「変奏曲」シリーズは、実は竹宮惠子先生が作ったストーリーではなく、増山法恵さんが厳しいピアノのレッスンから逃避したくて、小学生から高校生までの長い時間をかけて空想していたものでした。増山さんは架空の都市「ヴィレンツ」で音楽に生きる人々が展開する物語を、友人達に語って聞かせていました。それを作品として描かせて欲しいと竹宮先生が増山さんに頼んで、エピソードを繋ぎ合わせ物語にして描き、「変奏曲」シリーズとして世に出ることになりました。後に竹宮先生は、「ものすごく描きたかった。どうしても自分が描きたかった」と語っています。
その際、竹宮先生は原作者として増山さんの名前を出したかったのですが、「原作者が付くと、物語の作れない漫画家だと思われる」と増山さん自身が判断して、20年ほど名前を伏せていました。
増山さんは竹宮惠子先生の親友であり、マネージャーであり、そして最高のプロデューサーでした。竹宮先生自身も、増山さんは自分のプロデューサー…と思っていて、編集者との会議にも同席してもらっていました。編集者には「漫画家のプロデューサー」という存在がなかなか理解してもらえなかったようですが。増山さんがいないと漫画が描けない時期もあったようです。15年に渡り漫画家竹宮惠子を支え、多大なる影響を与え続けた人です。
竹宮先生の事務所を離れてからはご自身が小説家、評論家としてお仕事をされていましたが、その間も付き合いはずっと続いていました。



私が竹宮惠子先生を熱烈に好きだった時期というのが、増山さんが竹宮先生に影響を与え続けていた時期と重なるので、私が好きだったのは竹宮惠子、増山法恵の二人が生み出す作品の「熱量の迫力」だったのかな…と思いました。
(もちろん、増山さんがプロデューサーになる前の作品の中にも大好きなものがたくさんありますよ)
あのような奇跡的な素晴らしい作品たちを生み出した背景が、作品に負けないくらいドラマチックで感動しました。お二人に感謝しつつあらためてじっくり竹宮惠子先生の作品を読み返してみたいと思いました。

増山法恵さんは、去年お亡くなりになったとのことです。
ご冥福をお祈りいたします。

竹宮惠子先生は、増山さんの訃報を知ってから三ヶ月後にご自身のブログで増山さんのことに初めて触れましたが、最後にこう書いていらっしゃいます。


「また、会おうね。あなたと会わなければ今の私はいない。
 たくさんの知識、たくさんの楽しみをありがとう。」

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