No.611_城跡巡り 大草城址(愛知県知多市)

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2024年6月16日(日)
大草城(おおぐさじょう)
所 在:愛知県知多市大草東屋敷118-4
34.9400929, 136.8307216
駐車場:大草公園駐車場
34.9395042, 136.8307857
別 名:知多大草城

⚫︎知多大草城は、室町期に一色義遠によって築城されたとする説もあるが、確かではない。現在見られる遺構は、織田信長弟の織田長益によって築かれた。天正12年(1584)頃、近隣の大野城主であった佐治一成が退去した後、その所領と家臣団を受け継いだのが信益であった。
 江戸期に記された地誌類によれば当初大野城を居城とした長益は、水源が十分確保できないとして新たに大草城を築いた。ほぼ城郭が完成した頃、世が乱れたために廃城になったとしている。
 現在、城跡の主要部は大草公園となり、堀・土塁がほぼ良好に残っている。
(愛知の山城ベスト50を歩く 244ページ)

⚫︎天正十年、織田信長が本能寺で斃れたのち、その子信雄が尾張一国を領し、信雄の叔父で茶人として有名な有楽斎織田長益が、この地にきて大草城を築いた。長益は、初め、宮山城城主となったが、水利が悪く、あらためて大草城をいとなんだといわれる。本丸は南部の高所にあって、東西およそ86m、南北55m、本丸の北に位置する二の丸は、東西約83m、南北66mあった。さらにその北に三の丸を配した梯郭式平山城で、周囲に二重の堀を巡らした。知多郡の主城として、一時、重きをなした。寛文年間(1661-73)、尾張藩では制札を立てて城址の保存をはかったので、近世末期まで土居や堀が残っていたといわれる。尾張藩時代には、重臣山澄淡路守英龍の領地となった。
 (日本城郭大系9 306ページ)

⚫︎大草城は知多半島中央部の西海岸、知多郡大字大草字東屋敷の海岸近くにある、こんもりと繁った小山がその城址である。
 天正十年(1582)織田信長が本能寺でたおれたのち、その子信雄は三法師の後見として清須城主となったが、このとき、信長の弟源吾長益は一万三千貫をもって知多郡に封ぜられた。長益は、宮山城が山高く、水が乏しく、居城地としては不適であったから、大草の地に平山城を築くことを決め、築城にかかった。しかし、ほぼ完成はしたが、住むことはなかった。
 大草城は城山と呼ばれている。西に海、南の入江は外堀となり、さらに東方から北へのびている。本丸は南方の高所におかれ、それより北へ二の丸、三の丸を配した梯郭式平山城である。
本丸は東西四十八間余(約86m)、南北四十間余(約76m)で、二の丸は東西四十六間(約83m)、南北三十七間余(約67m)と、ほぼ四角をなしていた。その周囲には土塁をめぐらし、さらにその外には堀をめぐらしてあった。本丸の南、城門の外に細長い堀があるが、これは馬出しを造る予定であったかと思われる。
 三の丸は二の丸の北にある。東西に土塁をめぐらしてあった。三の丸の北東部に桝形の跡があるが、これが大手門の跡であろう。
(日本城郭全集7 53ページより)

⚫︎ 大草公園は、伊勢湾に面した標高10メートル位の高台にあります。織田信長の弟、織田長益が着手し未完のまま保存された城跡を公園として整備。大草城あとに作られた公園。天守閣を模した展望台からは伊勢湾を一望できます。水堀・土塁の大部分が完全な形で残っています。公園を一周できる散策路が整備されています。(知多市観光ガイドより)
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