三代目 古今亭志ん朝 ”芸談” ききて觀翁 小山觀翁撰集

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杉並公会堂で観翁が
毎年プロデュースさせていただいていた
いわゆる「ホール落語」のシリーズがありました。
平成10年あたりのことだったと思います。
来場なさった方があれば、
この回のデータをお教えいただければ幸甚に存じます。
ここに追補させていただきたく存じます。

また、この回の噺の音源も、
コレクションの中から探していますが、
今のところ発見出来ていません。

しかしこの音源は、
文楽や志ん生の昔話しを含めて、
志ん朝という噺家は、
ものの本質がよく見えていたことがわかる、
素晴らしい芸談と思いましたので、
アップせずにはいられせんでした。
長生きして円熟の芸を観たかったと
つくづく思いましたが、
皆様は如何でしょうか。


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三代目 古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう、
1938年3月10日 - 2001年10月1日[1])は、
東京都文京区本駒込出身の落語家である。
本名∶美濃部 強次。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。
五代目古今亭志ん生の次男で、十代目金原亭馬生の弟、
女優の池波志乃は姪、俳優の中尾彬は義甥にあたる。
七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、
若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。
他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。

経歴
1957年2月に実父五代目古今亭志ん生に入門。
前座名は父の前座名でもあり由緒ある名前の朝太。
柳家小光と共に2月1日から前座入り。
1959年3月、二ツ目昇進。1961年 NHK『若い季節』レギュラー出演。
1962年5月、五代目春風亭柳朝と共に36人抜きで真打昇進し、三代目古今亭志ん朝襲名。
抜いた先輩には兄弟子金原亭馬太郎、六代目むかし家今松や三遊亭全生、柳家小ゑん、橘家舛蔵がいた。
この年映画『歌う明星・青春がいっぱい』(東映)に初出演。
また、フジテレビ『サンデー志ん朝』に司会としてレギュラー出演する。
1978年5月 落語協会分裂騒動で落語協会を脱会し落語三遊協会に参加するが、僅か数日で落語協会に復帰。
1990年から1999年まで大須演芸場での独演会を始める。
1996年8月1日、三代目三遊亭圓歌の後任で落語協会副会長就任。
兄馬生も1972年から1982年まで落語協会副会長を務めていた。
2001年に芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
10月1日、肝臓がんにより家族に見守られる中、新宿区矢来町の自宅で死去。
兄弟子八代目古今亭志ん馬と同じ死因であり、亡くなる半年前には弟子の古今亭右朝を肺がんで亡くしている。
志ん朝没後の副会長には五代目鈴々舎馬風が就任した。
10月6日13時より護国寺桂昌殿で落語協会葬として営まれた告別式には関係者、
ファンなどが2500名以上が訪れ、その死を悼んだ。
戒名は「光風院楽誉観月志こうふういんらくよかんげつしん朝居士ちょうこじ」。
出典:ウィキペディア

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