江戸東京写真帳108:隅田川花火の日

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散歩写真スライドショー、暑い。蔵前駅から歩き始める。#隅田川の花火 大会を想像しながら見て歩く。厩橋に行く。閉鎖されて川辺に出られない。鉄パイプがめぐらされている。路地に入って、落下物注意の表示がある。駒形橋も、閉鎖されて川辺に出られない。間近に台船が浮かんでいる。駒形堂から雷門に行く。歩道の脇に足場を組んでいる。吾妻橋に向かい、立ち止まらない表示がある。#隅田公園 は立入禁止となる。吾妻橋も、鉄パイプがめぐらされている。墨田区役所前に、多くのテントが設置されている。川辺は広く開放されて見えるが、関係者占有が予想される。東武隅田川橋梁が見える。枕橋から、北十間川に下りる。川幅は狭く、枕橋を見上げる。隅田公園は、白いシートで閉鎖されている。隅田川の岸辺、通路に出て歩く。鉄パイプで囲われて、川辺に出られない。通路は堤通公園方面へ一方通行の表示がある。言問橋の手前から牛島神社に入って、開放された側の隅田公園を見る。池の近くで場所取り、シートを敷いている。言問橋東詰の交差点に出て、水戸街道から花火は見えないかと考える。言問橋の手前、袂の、樹木の多い公園を見る。場所取り、シートを敷いている。言問橋を渡って、桜橋方面に台船が浮かんでいる。橋袂の戦災慰霊碑を見る。閉鎖された隅田公園は、関係車両の駐車場になっている。野球場は、協賛席になっている。江戸通りに出て、持乳山聖天の前に少しの露店を見る。また、閉鎖される隅田公園を、桜橋に向かう。橋は閉鎖される表示があり、台船が浮かぶ。スポーツセンターのグランドが有料席になっている。川辺の通路を白鬚橋に向かうが、閉鎖されている。隅田川花火大会と謳っても、川辺に出られない。野球場の脇に、中継車がある。野球場は協賛席になっている。江戸通りに出て、白鬚橋に向かう。川辺に向かう路地も、柵で川には出られない。路地に今戸延命地蔵があった。白鬚橋から桜橋方面は、青いシートが張られて見えない。川辺には出られない。石浜神社側の水神大橋方面は公園になって、規制なく歩ける。土手に場所取りシートを見るが、何故か川辺と反対側にある。遠く汐入公園を見て、白鬚橋を渡る。隅田川東側は工事中で閉鎖されている。隅田川東側を桜橋へ向かう、高速道路がかぶさった通路は、鉄パイプに囲まれて、網が張られている。一方通行の表示が逆になっている。高架下の僅かなスペースで、シートを敷いて人がいる。囲いの中の堤通公園を見て通る。誰もいない。普段は川辺の、青シートのおっちゃんが、川辺を追い出されて、通路の脇に寝そべって、ラジオをかけている。高速道路が被さった銅像堀公園を通り、長命寺付近で、場所取りシートを敷いている。常夜灯付近にかけて草地にシートを敷いている。通路は、鉄パイプに囲われて、網が張られている。桜橋の東側のスペースは開放されているが、樹木で花火は見えないようだ。通行止めになる桜橋を渡って、山谷堀公園に行く。今戸橋付近は、場所取り、シートを敷いている。浅草駅に向かい、地下鉄に乗る。浜町駅から#浜町公園 に出る。川辺の土手スペースでデーキャンプしている。川辺の上は高速道路で、土手から下りると、川辺に出られる。新大橋方面は行けるが、花火会場は遠く、閉鎖されている。川筋は曲がって、花火は望めないと思う。土手上の通路を両国橋に向かう。通路脇の草地に場所取り、シートを敷いている。花火は遠く、対岸のビル越しに見えるかもしれない。両国橋の袂にテントが設置されている。橋は鉄パイプがめぐらされて、川辺が見えないように網状のシートが張られている。両国橋を渡って、国技館通りから総武線に沿って、大横川親水公園に向かう。江戸東京博物館に行かなかったが、建物の下が台上の広場になっているはず。#大横川親水公園 は、建物に囲まれた川幅の公園となって、花火が見えるか疑問であるが、場所取り、シートを敷いてしている。多少樹木に囲まれた水辺があり、鴨が泳いでいる。緑地もあって、人工的に整備された川と通路が続く。幼児用に水遊び場があり、大勢の人がいる。釣り堀もある。業平橋の手前、花壇の周りに場所取りシートが敷かれている。浅草通りに上がり、スカイツリータウンの前に北十間川がある。水辺は深く、人工的に整備している。岸から水平に噴水が出ている。東武線で鐘ヶ淵駅に行く。水神大橋を渡って#汐入公園 に行く。広大な土手公園に、大勢の人々が、シートが陣取っている。通路の脇、木陰に、疲れて座り込む。係員が来て、通路に座るな、と言ってくるが、疲れて動く気がしない。真面目に管理に徹している。土手通路を白鬚橋方面に向かい、瑞光橋を渡って、枝道が斜めに川岸に伸びている。時間に早いが、人が多く、途中の柵にしがみつくように座り込む。家族と落ち合う予定になっているが、通信状況は良くない。隅田川も、花火も見えそうに思うが、花火が始まって、打ち上げられた空は、自分がいる土手の上方向だった。その方向に前の男の頭があり、時々立ち上がったりする。白鬚橋の西に建物があり、花火と重なる。隅田川、白鬚橋、スカイツリーを意識して、花火が構図に収まるように考えたが、欲張りすぎた。川の上に花火は上がらなかった。水神大橋の方が良かったが遠すぎかもしれない。フィナーレは諦めて、白鬚橋西詰に出る。江戸通りは、交通規制して一方通行の出口になっている。江戸通りの一本ずれた路地に入る。ちょうど道の先に花火が見えたが、終わってしまった。会えていなかった家族と合流して、浅草から帰る。規制区域内は人々が、集まらない、溜まらないように規制していた。広く整備された川辺は、立入禁止になって、花火を見れないようになっていた。密集、事故が起きないように、厳重に管理されていたが、見えないようにするのは、本末転倒だと思う。整備された川辺で水難事故があったとしても、自己責任だろう。
 駒形堂、隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ。推古天皇36年(628)に浅草寺の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)から、この地に上陸して草堂に祀られた。浅草寺発祥の霊地に建つ堂である。浅草寺の住職の網野宥俊僧正は、「駒形堂の地が観世音菩薩上陸の地であり、隅田川に棲む魚類に対する愛護の必要を感じ、生物の守護仏である馬頭観音を祀り、人びとが心願成就の感謝として、馬形の作り物を奉納した事が名の由来」と推考される。天慶5年(942)、平公雅によって建立された。江戸時代、駒形堂の前に船着き場があり、ここから上陸した人びとは駒形堂の本尊を拝んで、浅草寺に参拝した。堂宇の正面は川側に向いていたが、時代とともに川を背にするようになった。
 浅草観音戒殺碑、元禄5年(1692)、浅草寺本尊の霊地として、駒形堂の地を中心に、南は諏訪町、北は聖天岸にいたる、10町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄6年(1693)、浅草寺第4世宣存が願主となり建立した。駒形堂は、しばしば焼失し、戒殺碑も火災に際して倒壊し、宝暦9年(1759)堂宇再建に伴い再び建てられた。
 水戸徳川家下屋敷、水戸徳川公爵家小梅邸、隅田川と源森川(北十間川)の交差部に当たり、河川舟運に好都合な場所であった。屋敷は本所と向島の境目にあたる。江戸時代、水戸徳川家下屋敷として機能したが、明治維新後に政府に接収された。勤皇で有名な家柄であったが、混乱で主導権を取れなかった。水戸徳川家にとっての一大転機は、明治8年(1875)、明治天皇の小梅邸行幸であった。明治天皇は小梅邸にて、徳川光圀、徳川斉昭の書や水戸徳川家に伝わる品々、尊皇の志に感銘をうけた。大正12年(1923)、関東大震災で、小梅邸は灰燼に帰した。陸軍被服廠跡の広場で、火災旋風が発生し、3万8千もの人々が亡くなった。一方で近隣の安田庭園、深川の清澄庭園、芝の芝離宮などで多くの人々が火災から守られた。単なる広場に無い、日本庭園の木々や池が人々を救ったと考えられる。震災後の復興事業の一環として、避難所として機能した公園や広場の役割が注目され、三つの大公園(隅田公園、錦糸公園、浜町公園と52の小公園が設置された。震災復興公園の中で、隅田公園は面積が最大であり、日本初の臨川公園、リバーサイドパークとして設計された。水戸徳川公爵家小梅邸跡も公園に加えられ、日本庭園が復元、保存された。第二次世界大戦、米軍の無差別爆撃で、東京は再度焦土となる。震災復興に復元された隅田公園の日本庭園も被害を受けた。昭和20年代のカスリーン台風、キティ台風による水害で、隅田川沿いに防潮堤が築造された。長年悩まされた水害から開放されたが、防潮堤の設置に、リバーサイドパークとしての魅力を失う。日本庭園にとっても、隅田川との接続が失われ、池の水が滞留する。さらに隅田公園の魅力を追いやったのが、昭和46年(1971)、首都高速道路の建設である。当時、隅田公園造成に携わった帝都復興院公園課長、折下吉延が「この地域は震災後の都市計画当時、大変苦心して作った公園で、震災の記念物であり、帝都復興の公園であるから、反対せざるを得ない。」と述べたが、東京市公園課長、井下清氏も審議会に参加し、提案した修正案を基に首都高速は建設されたた。日本庭園も首都高速建設の際に南側の池が埋め立てられ、規模が縮小した。
 東京大空襲、日本本土に対する空襲作戦は、綿密な地勢調査と歴史事例の研究を踏まえて立案された。アメリカ軍は、江戸時代に頻発した大火や関東大震災の検証を行い、火元、風向き、延焼状況、被災実態などが詳細に分析した。木造住宅が密集する大都市は火災に対して脆弱であり、焼夷弾による空襲が、最も大規模な破壊を効果的に与えることができると結論された。空襲対象地域の選定は、人口密度、火災危険度、輸送機関と工場の配置などの要素が検討され、爆撃有効度が計算された。当時の東京各区の人口は、浅草区の13万5000人、本所区、神田区、下谷区、荒川区、日本橋区、荏原区が8万人で次いでいた。荏原区は郊外に位置するため除外され、人口7万人の深川区を加え、焼夷弾攻撃地域第一号に策定された。広島、長崎の原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人、負傷者は15万人、損害家屋は約85万戸となった。
 隅田川、古代より、旧入間川が東京湾へ注ぐ下流部だったが、江戸時代に瀬替えの結果、荒川の本流が流れた。明治時代、岩淵水門より荒川放水路を東京湾まで開削した。放水路を荒川の本流と定め、以前の河道、岩淵水門から下流を、隅田川と定めた。古代に、隅田川は、旧利根川と旧入間川とが、足立区千住曙町付近で合流し南流して東京湾へ注いだ。西岸に沿って浅草、鳥越まで3キロメートル続く細長い微高地が形成され、標高10メートル以下の丘も点在し、古墳時代に古墳が作られた。水神大橋から白鬚橋までの東岸は、隅田(墨田、須田)と呼ばれた。合流点から2キロメートル下った墨田区向島5丁目付近より下流は、砂州が散在する河口への分流地帯だった。東京湾へ注ぐ当時の主要河道は、この地点から分岐した二つ、南西の浅草方向へ向かう現在の河道と、横十間川の方向へ河道があり、横川、柳島(墨田区)、亀戸(江東区)付近で東京湾へ注いだ。次第に土砂の堆積で河勢が弱まった。隅田川(旧利根川)は、、武蔵国(豊島郡)と下総国(葛飾郡)との国境であった。武蔵国、下総国を経て、常陸国へ至る東海道が通り、渡船で隅田へ渡った。合流区間もしくは分流地帯の渡河は、武蔵国、相模国と下総国、常陸国とを繋ぐ(さらに奥州へ赴く重要交通路だった。
 木母寺、976年(貞元元年)忠円という僧が、この地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚、墨田区堤通2-6)をつくり、傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まる。梅若丸は「吉田少将惟房」という名の貴族の子であったが、5歳の時に父を亡くし、7歳の時に出家して比叡山延暦寺に入ったが、兵乱に遭い逃げる途中、人買いに騙されて、この地まで連れてこられた。梅若丸の哀話は、後に浄瑠璃等の伝統芸能の題材となり、隅田川物と呼ばれる。


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