078 神田紺屋町=かんだこんやちょう Dyers' Quarters in Kanda.

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安藤広重が江戸時代に描いた浮世絵シリーズ、
名所江戸百景、その舞台となった場所は、
今、実際どうなっているのか、訪ねてみました。
Ukiyo-e series drawn by Hiroshige Ando in the Edo period,
One Hundred Famous Views of Edo, the place where it was set
I asked him what was actually happening now.
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私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
075の「神田紺屋町」は、染物職人の町であった紺屋町の物干しから吊された生地越しに見える、富士山を描いたものです。

最初に、この町の位置をお確かめください。
当時の江戸城天守閣から東北東へ約2.5km。今のJR神田駅からほぼ東に200mぐらい行った場所に染物職人の町がありました。

もう少し拡大した地図をご覧ください。今でも昭和通りと神田金物通りの交差点に、紺屋町という交差点名が残されています。広重は、おそらくこのあたりから神田駅南口方面を見た景色を描いたのだと思われます。その視点を赤いグラデーションで表してみました。

この地図に古地図をかぶせてみました。古地図の紺屋町の北側には、細い水路が確認できますが、これが藍染川で、染められた反物は、ここで水に晒されて染料を落とし、製品になっていきました。

紺屋町は、幕府から関八州と伊豆から藍の買い付けを許されていた、土屋五郎右衛門が紺屋頭として支配していた染め物職人の町でした。紺屋とは、もともと藍染め専門の職人のことでしたが、この頃になると「染物屋」全体を指し示す言葉になっていました。

武蔵野に自生するムラサキソウを使って、江戸で染めたことから名付けられた「江戸紫」が人気になり、それをさらに藍で染めた鉢巻を、歌舞伎の人気演目である助六が頭に巻き演じたことから、さらに人気を得ました。粋で洒落た染め物で人気となった神田紺屋町ですが、紺屋町以外で染めたものを「場違い」と呼んで、区別する言葉も生まれました。

紺屋町といえば、実話を元にした古典落語「紺屋高尾」が有名ですね。
神田紺屋町の染物屋吉兵衛の奉公人である久蔵は真面目一筋。そんな久蔵が花魁道中で、一目惚れした、三浦屋の高尾太夫に会いたい一心で、3年間飲まず食わずでお金、3両を貯めて春日部の由緒ある大店の息子という触れ込みで吉原に会いに行きます。

高尾太夫が最初に社交辞令で次はいつ会えるかと尋ねると、久蔵は泣き泣き、藍で染まった手を見せながら正直に自分の正体を明かしてしまいます。これを聞いた高尾も涙ぐみながら、自分を三年も思ってくれたことが嬉しい、来年の三月十五日に年季が明けるのでその時に女房にしてほしいと切り出します。

実際に三浦屋代々の名跡である「高尾太夫」は、11代ほど続いたのですが、この話の元になったのは、五代目の駄染め高尾と呼ばれる人物でした。神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁ぎ、駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、その手拭は当時の遊び人の間で大流行しました。五代目以外の高尾太夫は、いずれも悲惨な余生になってしまったのですが、五代目の高尾だけは、3人の子どもを産み、80歳を越えるまで生きたといわれています。

実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
先ず目につくのが、高く櫓を組んだ物干しから吊る下げられ、風になびいている藍染めの生地です。紺屋町らしく、藍色に染め抜かれた浴衣地には、版元である魚栄の「魚」の字と、広重の「ヒロ」をデザイン化した模様が染め抜かれています。

遠景には、夏の夕焼けの富士山、その周りには丹沢と秩父の山々が前後に描かれています。その手前が緑に囲まれた江戸城の櫓と蔵や江戸の街並みが描かれています。
左側には、当時流行っていた大八の車輪模様と、伝統的な藍の市松模様が染め抜かれた生地が風にたなびいています。

その下は、火事の多かったため火除け地として幕府に接収された場所です。火除け地は、防火設備であるため本来建築物は御法度でしたが、時代が進むにつれ、火事のとき直ぐに撤去できる葦簀作りであれば、建物を設置することが認められていました。

実は、同じ題材の画を数年前に葛飾北斎が富嶽百景で、描いていました。神田紺屋町は、北斎の富嶽シリーズに並々ならぬ対抗心があった、広重ならではの、完成形ではないかと言われています。実際に私は、「深川洲崎十万坪」や「大はしあたけの夕立」に次ぐ傑作だと思っています。

実際にこの場所に行ってみました。
撮影地点の真後ろが昭和通り紺屋町の交差点です。目の前の道路は、神田金物通りで先の信号が今川橋です。その先は神田駅南口で、ガードをくぐって左に進むと龍閑橋で、江戸城外堀に突き当たります。

ずっと先の高層ビルは、逓信博物館が建て変わった、大手町プレイス、NTTの大手町ビルと、大手町フィナンシャルシティです。

広重の画に現在の景色をはめ込んでみました。高さ的にも大きさ的にも全く合わないのですが、大手町のビル群の後に夏の富士山を合成してみました。
今、神田や紺屋町界隈には、染物屋さんは一軒も残っていません。都市化と藍染川の埋め立てにより、紺屋町の職人達は神田川、妙正寺川の畔に移転して行きました。しかし、現在では化学染料の振興と染色方法の多様化により、水道さえあれば染料を洗い流す川さえも必要なくなってます。

もともと藍染された生地や衣類は、防虫効果や消臭効果などがあり、そのちょっと使い込んだ色も重宝されていました。紺屋高尾とたなびく浴衣地を干す光景は、どんどん変化しているようですね。

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