熊谷うちわ祭り2014 本壱弐 本三四 山車人形せり上がり

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熊谷うちわ祭りは6台の山車と6台の屋台が出る。関東の歴史ある祭りでは人形や万燈など「だし飾り」を載せた屋台を山車、それ以外を屋台と呼ぶことが多く、成田祇園祭でも山車と屋台が混在し、佐原で大人形を載せ「山車」としている「やだい」の上層を近隣の小見川では唐破風屋根の舞台とし「屋台」と呼んでいる。青梅大祭では人形を載せずに山車と呼んでいるが、かつては人形を載せて山車としていたためで、御丁寧にパンフレットには「現在は屋台の形で巡行」と書かれている。
元々、江戸の祭りでは神輿渡御に伴い牛の曳く山車が先導し大型の屋台が随行していたようで、山車の飾りは魔除けのような意味合いで、最初は手持ち万度、のちに担ぐようになり、さらに二輪の露天屋台に載せて山車となった。古い時代は一本柱万度型の山車(現在も静岡県掛川市などに見られる)で、秩父地方の笠鉾の原型にもなった。飾りを高く掲げることが目的で、牛が曳くため山車は小型の二輪であった。
屋台は歌舞伎や狂言を演じる舞台として成り立ち、元禄以降大型で華やかな飾り屋台へ発展したと云う。然し、享保の改革で華美禁止令が出され、屋台の曳き回しは禁止となる。以降、江戸から大型の屋台は消え、山車も質素な造りとせざるを得なかったようだ。この頃、京風の絢爛豪華な屋台のあった飛騨高山では江戸の山車をガラクタ屋台と呼んだと云う。
然し、大型で絢爛豪華な屋台が関東から消えたわけではなく、秩父と世良田に今も残る。江戸中期以降、秩父妙見祭り、世良田祇園祭、神田明神祭は関東三大まつりと呼ばれる。
江戸後期になると江戸天下祭りに小型の踊り屋台、囃子屋台が復活し、踊り屋台は鹿沼では彫刻屋台へと発展する。現在も花園神社例大祭で曳かれているような屋台が、関東型の一層唐破風屋台の原型となり多摩地区、埼玉、千葉などに広く分布している。戦後、人形を飾らずに山車と呼ぶようになった地域も多い。
江戸末期になると、唐破風屋台と山車(鉾台)を合体させたような現在の江戸型山車が登場し、神田祭の最盛期には百台近くになったと云うが、明治22年以後、都心は電線が張り巡らされ山車の巡行が出来なくなり、山車の多くが売りに出される。明治24年に熊谷でも本三四が江戸から山車を購入し、山車巡行が始まる。
熊谷うちわ祭りは世良田、秩父の影響も受け山車、屋台混在の盛大な祭りとなり、関東三大まつりを凝縮した「関東一の祇園」となった。

「関東一の祇園」愛宕八坂神社例大祭(埼玉県熊谷市)
OLYMPUS PEN E-P5/M.Zuiko Digital 17mm F1.8
EMA-1/audio-technica AT9911

22 July 2014
Kumagaya Japan

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