県内の炭鉱閉山から50年「町は家族」小城炭鉱で育った男性の"あの日の日常"【佐賀県】 (23/02/16

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県内の炭鉱が全て閉山して今年で50年になりました。このうち昭和36年1961年、多久市の炭鉱は121.5万トンを出炭し県内の出炭量の45%を占めるほど成長を遂げていました。中でも小城炭鉱で育った男性は当時「炭鉱の町は家族だった」と振り返ります。

【一ノ瀬一磨さん】
「大きい“都市の縮図”ですね。縮図にあるなあと。労働組合、マーケット、劇場、楽しむところもあったから、一つの炭鉱で都市を形成するという感じですよね」

今から70年以上前のこと。
多久市で大手に引けを取らないほど栄えた県内企業の炭鉱がありました。
小城炭鉱です。
最盛期の1950年には3000人もの従業員が働き、その家族を含む約1万人が生活していたと言われています。

【一ノ瀬一磨さん】
「炭鉱の中では、皆さん坑内から上がってくると全身真黒く上がってくる。『わあすごかなーこのおじさん達よく頑張ってるな』と。坑内は命と背中合わせですから」

一ノ瀬一磨さん78歳。
機械の整備士として働いていた父と共に2歳の頃から小城炭鉱で生活していました。

【一ノ瀬一磨さん】
「左端に平和町炭住と書かれているその平和町に昭和27年くらいまで住んでいた」

1962年の小城炭鉱です。
石炭を採る坑口は2カ所。その周りには映画館やマーケットのほか従業員や家族が住む炭鉱住宅、いわゆる“炭住”の長屋が建ち並びます。一ノ瀬さんもこの平和町で生活する1人でした。

Q.長屋はどんな生活?
【一ノ瀬一磨さん】
「雑魚寝しているようなもんですね。そんなに広い部屋じゃないから」
「いろんな所から炭鉱に集まってきますので、沖縄とか鹿児島の方とか…鹿児島弁でしゃべると何言ってるか分からんけど、そういういろんな所からお見えになった方がいて、日が暮れるまで遊んでいた」

当時、水道やトイレのほか浴場が共用で、子どもにとっては限られた遊び場でもありました。

【一ノ瀬一磨さん】
「大人が炭鉱から上がってくると真っ黒に汚れて、入られるとお湯が汚れるもんですから、その前に遊びに行くんですよ。泳いだりなんかして遊んでよく怒られていましたね『お前たちは何しよっか!!』って」

また、ぼた山のふもとにあるグラウンドでは9月になると炭鉱で働く従業員や家族総出の恒例イベントがあったといいます。

【一ノ瀬一磨さん】
「“運動会”がありまして…炭住町内対抗ですので相当な人数が集まって楽しんでましたね。家族でいろんな所に遊びに行けないので一大イベント、一番楽しいことだった」

高校生になるとアルバイトとして小城炭鉱で働き始めた一ノ瀬さん。当時の場所に案内してもらいました。

【一ノ瀬一磨さん】
「私が仕事したところです。家が続いているところは石炭の積み込み場があった。石炭にならないものをボタという。石くれが。そのくずが炭車の中に蓄積していく。それを掻き出すアルバイトだった。まあ肉体労働ですけどね。ツルハシとかき板使って掃除するんですけど、1人つらい仕事なんですよね」

一ノ瀬さんは高校に通いながら週5日働きました。
当時、アルバイト生は坑内に立ち入れませんでしたが、月給は2万円以下。いまの20万円以下にあたる高給でした。

【一ノ瀬一磨さん】
「父が肺結核になったから私が家計の手助けをせないかん。貧しかったなという感じ。生活そのものが戦後まもなくでたいして裕福ではなかった」

戦後の佐賀の復興に大きく貢献した小城炭鉱。その後、エネルギー革命という大きな時代の流れに飲み込まれ1962年、22年の役目を終えて閉山しました。

【一ノ瀬一磨さん】
「炭鉱の町そのものが・・・そうねえ・・・家族かなあ、炭鉱の町自体が大きな家族だと考える。私としては炭鉱の思い出はきついこともあったけど、懐かしい思い出」

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