【旧野麦街道と野麦峠】「あゝ野麦峠」で有名な岡谷の製糸工場へ働きに出た女工達が歩いた街道跡が今も長野と岐阜の県境に残ります。野麦峠には政井みね兄妹の石像・政井みね之碑・お助け小屋があります。

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約1300mほどの街道跡が「旧野麦街道」として長野県史跡に指定されています。ウォーキングコースとして整備されていますが、一年を通して訪れる人はほとんどいません。※訂正:撮影日は2022年11月3日です。

旧野麦街道から山頂の野麦峠へと続く一般道は土砂崩れのため2022年3月からずっと通行止めとなっていましたが、10月27日から冬季閉鎖までの間、期間限定で通行可能となりました。

信州松本と飛騨高山を結ぶ陸路として古くから利用された野麦街道。かつて鎌倉街道、江戸街道とも呼ばれ、飛騨と信州や江戸を結ぶ重要な路線でした。

富山県で水揚げされた鰤(ぶり)を信州へ運んだ街道であったことから、別名「鰤街道」とも呼ばれていました。

そんな野麦街道で最も標高が高い場所を野麦峠と呼びます。標高は1672m、岐阜県の飛騨高山と信州(長野県)松本奈川の県境に位置します。

野麦街道は、飛騨高山から岡谷・諏訪の製糸工場へ働きに出た少女達が通った街道として知られています。山本茂実の小説『あゝ野麦峠』が何度も映画化されているのでご存知の方も多いでしょう。

つい先日(2022年9月)大竹しのぶさん主演の劇場版「あゝ野麦峠(完全版)」がアップされ無料で見られるためご覧になった方も多いでしょう。※現在(2023年11月)は削除されています。

少女達が製糸工場の女工として野麦街道を通ったのは、年末年始と盆の2回です。郷里の親が待つ故郷に帰省するために往復しました。

年末年始の頃は行きも帰りも雪深く厳しい道のりであったため、野麦峠越えの途中で行き倒れる工女も少なくなかったと言われています。

野麦峠の付近には大小の石仏がありますが、これは峠を越えることができなかった少女たちを祀ったものだと言われています。

ちなみに、「野麦」とは、街道沿いに生い茂っているクマザサのことを指します。当動画でも足元に茂っています。

野麦峠には、政井みね兄妹の石像・政井みね之碑・お助け小屋があります。

「政井みね」とは、製糸工場での厳しい労働の中、仕事中に病に倒れた女性です。兄に背負われて郷里の高山へ帰る途中、野麦峠で「ああ飛騨が見える」と言って息絶えたという実在の女性です。

政井みねを祀る碑が峠の展望台に残っています。これはお墓ではないようです。

「お助け小屋」とは、現代の避難小屋のような施設です。標高1672 mの野麦峠は野麦街道最大の難所でした。冬は積雪のため峠を越えることが困難で、行き倒れにならないように利用されました。

このお助け小屋は長年放置されていましたが、1970年にオープンして、観光施設として利用されています。食事もできます。中には「あゝ野麦峠 新緑篇」を中心に映画の場面などの写真が飾ってあります。

土砂崩れの影響もあって2022年3月より休業していますが、2023年の県道39号の開通と同時に再開してほしいものです。

なお、野麦峠にあった「野麦峠の館」は2022年3月31日をもって閉館となりました。

女工達が岡谷へ行く途中で泊まった宿も残っています。こちらをご覧ください。
   • 【「あゝ野麦峠」で有名な岡谷の製糸工場へ働きに出た女工が泊まった入山宿(に...  

野麦街道は、一時はそれまで残っていた野麦街道は舗装された道路に変わり、観光用道路として整備され利用されるようになりました。

しかし、ワサビ沢口とよばれる地域からは野麦街道を外れて道路が造られたため、途中1300mほどの区間は当時のままの街道の原形が比較的よく残っています。

オープニング(0:00)
旧野麦街道(入り口)(0:24)
野麦峠・「あゝ野麦峠」の石碑(6:36)
政井みね兄妹の石像(7:29)
お助け小屋(9:26)
政井みね之碑(12:24)

#野麦街道#野麦峠#あゝ野麦峠

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