被爆後の広島・長崎で 被爆者のために家を建てたアメリカ人がいたー【被爆79年NO MORE...】シュモーさんとジムさん (前編)

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原爆投下後の広島・長崎で、被爆者のために家を建てたアメリカ人たちがいたー。シリーズ「被爆79年 NO MORE...」。家を建てた「シュモーさん」と「ジムさん」2人のアメリカ人にスポットを当て、家づくりに込めた思いや、そこに暮らした人の記憶、現代の私たちに伝えるメッセージを「前編」「後編」のシリーズで伝える。原爆投下から数年後、爆心地から600メートルの山里小学校そばに建つ家々ー。(↑写真:右奥が山里小学校 その下の段に家が建ち並ぶ)家族と家を失った被爆者のために建てられたものだ。(↑写真:当時の住人たち)建設の発起人は、アメリカ人のフロイド・シュモー。105歳で亡くなるまで平和のために行動し続けた。(↑1988年11月、93歳のシュモーさんが最後に広島市を訪問した時 提供:RCC中国放送)1895年生まれのシュモーさんは、植物学者で、自然を愛し、戦争や暴力は絶対悪との考えを持った人だった。第一次世界大戦中は、兵役を拒否し、ヨーロッパで難民支援にあたった。日米開戦後は、アメリカで強制収容の対象となった日系人を支援した。1945年8月6日 広島に人類史上初となる原子爆弾が投下されたー。その年だけで約14万人が亡くなったとされている。3日後の9日には長崎にも投下。長崎では、その年、約7万4千人が犠牲になった。住宅建設は「謝罪の気持ち」を伝えるため原爆投下に心を痛め、謝罪の気持ちをどのようなかたちで伝えるべきか考え続けていたシュモーさんは、広島と長崎で家を建てることを決め、資金と仲間集めに奔走した。1949年1月21日、シュモーさんは、文通相手だった日本の青年に宛てた手紙に、家づくりに込める思いをしたためている。手紙 訳『(家づくりには)様々な人種、様々な国の人に集まってほしいと思っています。この家は、単に、戦争中に焼失した何百万もの家の一軒に代わるだけのものではなく、私たちの思いの象徴となるはずです。これによって、私たちは、戦争は悪いこと、私たちが間違っていた、苦しんだ人たちに、申し訳ないと思っていると言いたいのです』船底で荷物と共に来日 寄付金を無駄にしない...シュモーさんは、住宅建設をめざし、昭和天皇や日本の国会議員らにも手紙を書いて協力と理解を求めた他、アメリカ、プエルトリコ、メキシコ、カナダ、アラスカ、フランス、中国、日本などから4300ドルの寄付金を集めた。当時、占領軍の事業としてなら来日も容易だったが、シュモーさんの信念がそれを許さなかった。あくまで個人として来日し家を建てるー。ようやく占領軍から日本入国の許可が下りたのは、原爆投下から4年後のことだった。(↑写真:1949年7月22日 来日途中にハワイに寄港 右端がシュモーさん)1949年7月17日、日本に向け、サンフランシスコを出港。シュモーに学ぶ会  西村 宏子 代表:「(シュモーさんたちは)船底で荷物と共にやって来たって言うんですね。皆さんから預かったお金は、広島のために、長崎の人のために少しでも使わなきゃいけないんだ、ということから、一番船底の安いところに乗ってやって来た。長崎・広島の人に寄り添う心が、本当に色々なところに見てとれます」(↑写真:1949年8月 神戸で家づくりに参加する東京の若者たちと合流)2004年に発足した広島市の「シュモーに学ぶ会」は、シュモーさんたちについて知り、伝える活動をしている。2024年4月、これまでに集めた写真などの展覧会を長崎市で初めて開いた。住宅の建設には、シュモーさんたちアメリカ人だけでなく、趣旨に賛同した東京の学生や、地元の若者も参加した。家を建てることは、平和をつくること暑い中での不慣れな作業だったはずだが、みんなとても楽しそうなのが印象的だ。広島と長崎、両方の家づくりに携わった故・北川正博さんは、広島で被爆し、同級生の多くを亡くした。(↑写真:長崎の建設現場で 右から2人目が北川さん)「シュモーに学ぶ会」の西村宏子代表は、北川さんが亡くなる前年の2017年10月に行った聞き取り調査での北川さんの話が忘れられないという。(↑写真:2017年10月 亡くなる前年の北川正博さん)『みんなが仲良く一緒の目的を持って作業していた。この時に思ったんだ。同級生たちは、友達は、なぜ死ななければならなかったんだろうか? こうやって今、この間まで戦争していた国の若者が仲良くできているじゃないか。こうやって一つのことを一緒にやっているじゃないか」広島の建設現場に掲げられていたスローガンの写真が残されている。「家を建てることによって 互いを理解し合い 平和が訪れますように」共に汗を流し家をつくることは、平和への道筋そのものだったー。「台所に水道がある!」広島市では、1950年前後に、住宅と集会所の計21軒が建てられた。(↑提供・TBS)(↑建設した広島の住宅内で 右がシュモーさん 提供・TBS)(↑住宅の前で話しをするシュモーさん 提供・TBS)しかし、老朽化などにより、今は、集会所だった1軒が残るのみだ。その1軒も、道路建設によって存続が危ぶまれたが、広島市は、約40メートル移築して保存することを決め、2012年、シュモーさんらの活動を紹介する広島平和記念資料館 附属展示施設「シュモーハウス」として生まれ変わった。壁の一部は、内部が見えるようなかたちで保存されている。シュモーに学ぶ会 西村 宏子 代表:「板を剥がした奥に、一つ一つ留めるようによったものが挟まっていて、これに土・水・草を刈ったものを混ぜてセメント代わりのような物なんでしょうかね。工夫して、みんなで考え、みんなの手で持ったり、繋いだりされたんだろうなと感じることがあって」(↑写真:土・水・草を混ぜる作業)シュモーさんは、広島に続き、長崎にも家を建てようと、1950年7月、長崎市を訪れた。その時に長崎市と交わした協定書が、長崎市役所に今も残されている。そこには、入居者の条件などが細かく記載されていた。困窮している家族に賃貸されることや、戦争で家を失った子どものいる家族が入居者として望ましいこと。宗教や人種、社会的地位は問わないなど、シュモーさんの細かな配慮や優しさが見てとれる。山里小学校と浦上川に挟まれた橋口町の市有地に建設が決まり、住宅と集会所 計9軒が建てられた。シュモーに学ぶ会 西村 宏子 代表:「馬場さん!よく来て下さった~!」「シュモーに学ぶ会」が開いた長崎市での展示会を訪れたのは、長崎のシュモー住宅の住人・馬場充夫さん。原爆で父を亡くし、母と祖母、3人の兄と暮らしていた。(↑写真:住民たちが集まり開かれたクリスマス会 馬場さんは当時7~8歳)(↑写真:長崎のシュモー住宅。手前右の家が馬場さん宅。家の前で遊ぶ馬場さんらが写っている)長崎のシュモー住宅の住人 馬場 充夫さん(78):「(シュモー住宅に入る前に住んでいた家は)水道もないし、風呂もないし。水は、ずっと下って行ってバケツに入れて汲まなければいけなかった。だから、シュモー住宅に入った時、水道が台所にある!とビックリした」父親的存在だった もう1人のアメリカ人との出会い、突然の別れ...戦後の暮らしを一変させた長崎のシュモー住宅。そこに暮らしたのは皆、戦争や原爆で夫を亡くした妻とその子どもたちだった。同じ境遇の者どうし助け合い、一つの大きな家族のようだったという。住人たちにとって、シュモーさんの他にもう一人、特別な存在のアメリカ人がいた。" ジムさん "こと、ジェームズ・ウィルソンさんだ。長崎のシュモー住宅建設の責任者で、集会所の一室で暮らしていた。長崎のシュモー住宅の住人 馬場 充夫 さん(78):「肩車してくれるしね。レスリングは家の中で、ジムさんの部屋で」記者:「ジムさんと子どもたちがレスリングするんですか?」馬場さん:「子どもたち何人かでかかっていくわけ」シュモー住宅に住む子どもたちにとって、父親のような存在だったジムさんー。(↓写真:住人たちの集合写真。後列右から2人目がジムさん)しかし、ある日、子どもたちの前から姿を消すー。それから70年が過ぎ、見えてきた真実ー。ジムさんは、なぜ突然いなくなったのかー?そこにあったのは、平和への思いと、人と人の絆だったー。(後編へと続く)

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