No.612_城跡巡り 大野城址(愛知県常滑市)

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2024年6月16日(日)
大野城(おおのじょう)
所 在:愛知県常滑市金山 城山
34.9284327, 136.8339681
駐車場:城山公園 駐車場
34.9277683, 136.8339812
別 名:宮山城

⚫︎ここは、昔、佐治氏の城があったところである。古くは、宮山城とか大野城とか呼ばれ、昭和43年11月1日、この一帯は「大野城跡」として常滑市文化財に指定された。城主佐治一族については、いろいろな話が伝えられているが、室町時代の終わりごろの戦国時代に、四代の城主が続いて勢力を張っていたと思われる。
 城は、南側の低いところが空堀で、現在、佐治神社のある一段と高いところに物見櫓があったようである。(現地案内板より)

⚫︎大野城は宮山城とも呼ばれ、当初は知多分郡守護であった一色氏の城であった。後、一色氏被官であった佐治氏が台頭して城を奪ったと言われている。佐治氏三代の信方は織田信長の妹を妻とし、四代の一成は信長の姪で浅井長政三女であった江を妻としていた。織田氏との関わりの深さが知られる。一説には佐治氏は水軍を擁していたと言われる。
 城跡は主要部が公園となるが、それ以外は畑・竹藪・荒れ地となっている。城域は東西約500mにも及ぶが、破壊された部分も少なくない。天正期に大野城が廃された理由は飲料水が十分確保できなかったためであると伝えられている。
(愛知の山城ベスト50を歩く 46ページ)

⚫︎宮山城は、知多半島のほぼ中央に位置し、西に伊勢湾を望む小高い丘陵青海山の北部にあった。知多郡の古い港で、潮湯治場として往古から知られた大野に近く、大野城とも呼ばれる。築城年代は明らかでないが、初め尾張源氏の流れをくむという大野氏や一色氏が居住し、のちに、近江出身の佐治駿河守宗貞が三万石を領して城主となった。以来、為貞・信方・信吉まで四代続き、信方以降は織田氏に属し、信長のもとで、戦功を挙げた。信長な死後は、秀吉に従わず、小牧山の役では、家康方に加わったため、秀吉の怒りをうけて滅亡したといわれる。
 佐治氏の跡は織田長益の所領となったが、長益が城を大草村に移したため、廃城となった。
 城郭は、東西に狭く南北に長い長方形の平山城で、四方に二重堀が巡らされていた。
 現在は、一部住宅地となったが、本郭・堀がわずかに残っている。丘上には佐治神社が鎮座する。(日本城郭大系9 58ページ)

⚫︎大野城址とも呼び、青海山の北方の小高い丘陵に東西十五間(27m)、南北七十間(136m)あまりのところに本丸が位置し、空堀は今なおその一部が残っている。はじめ大野氏、一色氏が現住し、その後佐治駿河守宗貞が継いで大野三万石を領し、その子上野介為貞、六郎信方、与九郎信吉まで四世相継いでその領主となった。現在は丘上に小祠を建て、里人は佐治神社と呼ぶ。この小祠の建つ土地と周囲の空堀の一部を残し、その周囲の丘は荒々しくけずられ、現在では、住宅団地として再生されている。この地に立つと、伊勢湾の風光は一望のもとに白帆の去来が手にとるがごとく、まことに景勝の土地である。(日本城郭全集7 206ページより)

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