早稲田大学校歌

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創立二十五周年の明治四十年十月制定(1907年)
相馬御風 作詞 東儀鉄笛 作曲  坪内逍遥 校閲

1
都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや 進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想 かがやくわれらが 行手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ
2
東西古今の 文化のうしほ 一つに渦巻く 大島国の
大なる使命を 担ひて立てる われらが行手は 窮り知らず
やがても久遠の 理想の影は あまねく天下に 輝き布かん
わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ
3
あれ見よかしこの 常磐の森は 心のふるさと われらが母校
集り散じて 人は変れど 仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろへて 空もとどろに われらが母校の 名をばたたへん
わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ

それまで校歌のなかった早稲田大学では創立25周年を迎えるに際し、新たに校歌を作ることとなり歌詞を学生から公募しました。
しかしよいものがなく、審査員の坪内逍遥は、当時弱冠25歳で「早稲田文学」の編集に従事していた校友、相馬御風に作詞を命じました。
卒業してまだ2年の御風は固辞したが、許されず、ついに坪内の校閲加筆を条件にこの大役を引き受けました。
彼は大学側から条件を聞き、作曲者の東儀鉄笛について英米各国の大学校歌を調べました。
やがて御風から届けられた詞を一読した逍遥は絶賛した。とくに第三節の「心のふる郷」以下の詞の妙をたたえ、各節の終わりに「わせだ、わせだ」のエールを加えただけであったといいます。

相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)は日本の詩人・歌人・評論家。本名は昌治(しょうじ)。新潟県糸魚川市出身。早稲田大学文学部哲学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や童謡の作詞者としても知られる。

東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日(1869年7月24日) - 大正14年(1925年)2月4日)は、明治・大正期の雅楽家・作曲家・俳優。本名・東儀季治(すえはる)

坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、本名 雄蔵 1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。
東京大学文学部政治科卒 早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となり後に早稲田大学教授

早稲田大学教旨は、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが
草案を作成し、 大隈重信が校閲の上祝典で発表した。

早稲田大学教旨 1913(大正2)年

早稲田大学は学問の独立を全うし 学問の活用を効し
模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す

早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て
之が自由討究を主とし
常に独創の研鑽に力め以て
世界の学問に裨補せん事を期す

早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て
学理を学理として研究すると共に
之を実際に応用するの道を講し以て
時世の進運に資せん事を期す

早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て
個性を尊重し 身家を発達し 国家社会を利済し
併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す

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