カトリック✝️年間第12主日(2024.6.23 B年)+ベルナルド神父様のお説教

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2024年6月23日(日) @カトリック教会では @年間第12主日のごミサが行われます。

第一朗読 :ヨブ記      38章1、8-11節
第二朗読 :使徒パウロのコリントの教会への手紙(2)5章14-17節
福音朗読 :マルコによる福音       4章35-41節

それぞれの朗読箇所全文テキストは、こちらで読むことができます。
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今週の朗読箇所についてのパパ様のお説教を
紹介いたします。

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+教皇フランシスコ、2021年6月20日「お告げの祈り」でのことば+

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 今日の典礼では、イエスが突風を静めた話(マルコ4・35-41)が示されます。弟子たちが湖の向こう岸に渡るために乗った舟が、突風に吹かれ、波にのまれます。弟子たちは舟が沈むのではないかと恐れます。イエスは彼らと一緒に舟に乗っていますが、船尾で枕をして眠っておられます。弟子たちは怖くなり、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)とイエスに叫びます。

 わたしたちも、人生の試練に打ちのめされ、何度も主に向けて叫びます。「どうしてあなたは黙ったまま、何もしてくださらないのですか」。自分がおぼれてしまうのではないかと恐れます。愛を見失ったり、大きな期待をかけていた取り組みが挫折したり、不安という絶え間ない波に翻弄されたり、さまざまな問題のために沈みそうになったり、目的地も港も見つけられずに海上をさ迷ったりするときはなおさらです。また、仕事を失ったり、思いもよらない診断を受けて自分や愛する人のからだが心配になったりして、前に進む気力を無くしたときもそうです。自分たちが突風に吹かれていると感じるとき、自分はもう駄目なのではないかと恐れるとき、そうしたときは沢山あります。

 こうした場面など多くの状況の中で、わたしたちも恐怖で押しつぶされそうになり、弟子たちのように、一番大切なものを見失う恐れがあります。イエスはたとえ眠っておられても、そこにおられ、そこでの出来事を弟子たちと共有しておられます。イエスが寝ていることに、わたしたちは驚きますが、そのことにより、わたしたちは試されてもいます。主はそこにおられます。そして、わたしたちがご自分に呼びかけ、祈り求め、自分たちの体験の中心にご自分を位置づけるのを――いわば――待っておられます。イエスの眠りにより、わたしたちは目覚めます。イエスの弟子であるためには、神がそこにおられることを信じるだけでは十分ではなく、イエスと共にそこにいて、イエスと共に声を上げることが必要だからです。どうかよく聞いてください。わたしたちは神に叫ばなければなりません。多くの場合、祈りは「主よ、わたしをお救いください」という叫びです。世界難民の日である今日、わたしは「彼の姿に」という番組を見ましたが、大きな船で大勢の人がやって来ておぼれそうになり、「助けて」と叫んでいました。わたしたちの人生でも同じようなことが起こります。「主よ、助けてください」。祈りは叫びです。

 今日、わたしたちは自らにこう問いかけることができます。わたしの人生に吹きつける突風は何だろう。わたしの行く手を阻み、霊的な生活、家庭生活、そして心理的な営みさえも脅かす波とはどのようなものだろう。これらすべてを、イエスに問いかけましょう。イエスにすべてを打ち明けましょう。イエスはそう望んでおられます。イエスは、わたしたちが人生の予期せぬ突風から逃れる場を見つけるために、ご自分にしがみついてほしいと願っておられます。福音書によれば、弟子たちはイエスのところに行って、イエスを起こし、イエスに語りかけています(38節参照)。これこそが、わたしたちの信仰の原点です。つまり、自分の力だけでは沈んでしまうと認めること、そして航路を示す星を船員が必要とするように、わたしたちにもイエスが必要だと認めることです。信仰は、自分たちだけではやっていけないと思うこと、神が必要だと感じることから始まります。わたしたちが自分の中に閉じこもる誘惑に打ち勝つとき、神をわずらわせたくないという偽りの敬虔さを克服するとき、神に向けて叫ぶとき、神はわたしたちの中で不思議なわざを行ってくださいます。祈りがもつ、柔和でありながらも並外れた力が、奇跡を起こすのです。

 弟子たちに頼まれ、イエスは突風と波を静めます。そして弟子たちに尋ねます。その問いは、わたしたちにも向けられています。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(40節)。弟子たちは、イエスを見つめることよりも、波に気を取られていたので、恐れに捕らわれます。恐れは、よく眠っておられる主に目を向けるのではなく、難局やひどい問題ばかりを見つめるよう、わたしたちを仕向けます。わたしたちはこのようになることもあります。主のもとに行き、主に自分たちの悩みを打ち明けるのではなく、問題ばかりを見つめることが何度あることでしょう。主を船尾の隅に追いやり、必要なときだけ起こすことがどれだけ頻繁にあることでしょう。つねに主を探し求める信仰、み心の扉をたたき続ける信仰の恵みを今日も願い求めましょう。神を生涯、信じ続けたおとめマリアが、主に自分自身を日々、託すことが不可欠であることを、わたしたちに思い起こさせてくださいますように。

引用元:カトリック中央協議会
https://www.cbcj.catholic.jp/2021/06/...

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