【フッサール③】西洋哲学史 現代哲学解説【判断停止(エポケー)ってなんだ?】【現象学】

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動画の書き起こし版です。

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前回までのおさらいをすると、
現象学では、デカルト的な疑いようのない自分の意識と、
その次に疑いようのない五感との間に発生するノエシス(志向作用)が
全ての根元にあたるものだと考えます。

それを研究することで、様々な学問を再定義することができるし、
哲学を再度1から始められる可能性があると主張したわけです。


つまり現象学は『意識体験の学問』とも呼べるのですね。


しかし、肝心のノエシスについて研究するためには、
自然的態度を破棄して、超越論的還元によって新しい認識を得る必要があります。
そのために【判断停止(エポケー)】が必要だというのですが
これが多くの現象学解説の一番初めにくる難関なので

「判断停止ってなんやねん」

とそこで思考がぶっ壊れてしまうんですよね。(非常に共感できます)



それをもう少しわかりやすく解説するためには
色々と極論ですとか暴論を利用しないといけないので
あらかじめご理解いただいた上で見てください。


結論から述べると、判断停止とは文字通りの判断停止なんですね。

現象学の立場で思考をするためには、
とりあえず自然的態度を忘れないといけない。
これはわかると思います。そうじゃないと認識の転換ができないんだから。

でも、自然的態度は、それが一番自然な状態だから自然的態度なのであって、
それが本当は間違っているよ。という意見に対しては当然反論ができてしまいます。


現象学はノエシス(思考作用)を根元として発展していく学問ですが、
そこには『ノエシスには万人に共通の法則性がある』という大前提があります。
カントの生得観念のような考え方ですね。

でも、それって確認することができないですよね。


クオリアの問題のように、AさんとBさんの間で
『赤い』という感覚(主観)すら一致していると証明できない状況において
『ノエシスは万人に共通の法則性がある』については
どう考えても証明することができないのです。



つまり、超越論的還元については理論としてはなんとなくわかるけど、
逆に自然的態度の立場からすると同じく理論で反論がいくらでもできてしまう。
だから、理によってその立場に自身を還元することは難しい。


となってしまうのです。


もっと簡単に言えば、前回と前々回の動画を見ていただいて多くの方は
「なんとなく言ってることはわかるけど、理解はできない」
と感じたはずです。
そして、その直感は正しいのです。


だからこそ、フッサールはあえて判断停止(エポケー)という言葉を使いました。


これを別の表現で『括弧に入れる』とも言います。


つまりフッサールはこう言ったのです。


「その気持ちめっちゃわかる!」

「でも、その気持ちもまるっと抱えた上で、
 いったん全部忘れて超越論的態度に立ってみよ?」

「だって、考えちゃうと自然的態度から脱却なんてできないんだから」

「とりあえず理による思考をいったん横に置いて(括弧に入れて)こっちおいで」


これを判断停止(エポケー)と表現したわけです。



だから逆に、判断停止とは何もすごく難しい概念ではなくて、
普段の感覚をいったん忘れてね。そうじゃないと現象学を始められないから。

という意味なのです。


これはアインシュタインの相対性理論でも同じようなことが言えます。
相対性理論においては光速度を不変のものとする大原則があります。
しかし、光の速さがいついかなるときも一定であると、どうやって証明できるでしょう?
実際にこれについて批判をしている科学者も存在します。
ですが、多くの科学者はこの原則を飲みました。
それによって様々な科学が発展していくのですが、
この態度は現象学における判断停止と近いと感じます。


こう捉えると(捉えて良いとは言っていない)だいぶスッキリするのではないでしょうか。



現象学の有名なエピソードにサルトルのものがあります。


ある日のBARで、自身の哲学について悩んでいたサルトルに、
友人の社会学者であるレーモン・アロンが言いました。


「君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ。
 そしてそれは哲学なんだ!」


この言葉に、サルトルは青ざめたと言います。

それは、彼がそれまでにずっと望んできた言葉だったからです。


現象学の立場に立つことで、初めて体験と認識の関係を正しく捉えることができて
だからこそ、それが真に新しい哲学を打ち立てることになる。
逆にいえば、それまでの哲学が採用していた認識では、
目の前のカクテルのことすら語れなかったと言っているわけです。



きっとそのときのサルトルにはフッサールの言葉が聞こえていたのでしょう。


「今ごちゃごちゃ考えていることをいったん脇に置いてこっちにおいで」


このようにして、フッサールの提唱した現象学は
その後に多くの哲学者に影響を与え、
20世紀における哲学界のスターを数多く輩出するきっかけになります。

そしてそれは、科学という理系の波に押されていた
当時の哲学界を生き返らせる一つのきっかけでもあったのです。


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