Hymne à l'amour 愛の讃歌〜越路吹雪

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パリのコンセルヴァトワールに留学していた作曲家・黛敏郎は越路に「とてもいい歌だからぜひ歌ってみたら」と譜面を送ってきた。1952年、折しも急遽出演の決まった越路の日劇のシャンソンレビュー「巴里の唄」で音楽監督を務めていたのがパリ帰りの黛であり、「愛の讃歌」を歌うことになった。黛の翻訳が原語の怖いくらいの内容だったため、もっとロマンティックにとマネージャーの岩谷時子が一夜漬けで詩をつけた。これが作詞家・岩谷時子の最初の詩となった。

翌1953年(昭和28年)春、日本人の海外渡航が自由化されていない時代、越路はフランス・パリへ渡った。エディット・ピアフの歌を生で聴き大きな衝撃を受けた。
ピアフの生歌を聴いた日本人は数人しかいない。
その後、夫君・内藤法美氏とパリ滞在中にピアフの訃報をホテルで聞く。
越路にとってピアフは因縁があったようだ。

この曲はリサイタルのアンコールで歌われ、この曲の入ったレコードの売上総計は200万枚を超えるそうだ。

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