駄菓子屋続ける 大正生まれの97歳のおばあちゃん【佐賀県大町町】 (23/04/03

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県内で奮闘する人をクローズアップする佐賀人十色です。今回は、大町町で80年近く店を切り盛りする、大正生まれのおばあちゃんです。

大町町にある吉川商店。きょうも店頭に立つのは吉川暉子さん。大正生まれ、御年97歳です。母親から受け継ぎ、80年近く経った今も毎朝7時半から店に出ます。

【吉川暉子さん】
「「まだしてた?」と言うから(昔来ていた)子供が。「まだしてたよ」と。「いつも来てたもんね」と自分たちから言って。「そんな大きくなったね」と」

大町町で生まれ、母・トシさんが営む店を手伝いながら育った吉川さん。簿記の学校を卒業した後、17歳から家の近くにあった県内最大の炭鉱、杵島炭鉱で働き始めました。

【吉川暉子さん】
「これが杵島炭鉱があった時の総務課のみんな。タイプライターとか。私はここにいる」

当時の日本は太平洋戦争の真っただ中。国民服やもんぺなどを着て、仕事をしていたそうです。

【吉川暉子さん】
「空襲、空襲で、サイレンが鳴ったら私たちも坑内の中に入っていた。飛行機が通り過ぎるまで。本当に夢みたい、今考えれば」

アメリカをはじめとする連合軍の空襲に日々怯える生活でしたが、そのころ、知り合ったのが炭鉱夫だった安夫(やすお)さんです。

【吉川暉子さん】
「じいちゃんは音楽をしてた。アコーディオンをしてた。炭鉱でグループで」

娯楽が少なかった当時、杵島炭鉱では楽団や野球部などがつくられ、人気を博していたそうです。
戦争が終わり22歳の時、安夫さんが婿養子となる形で結婚。それを機に炭鉱の仕事を辞め、吉川さんが母の店を切り盛りし、跡を継ぎました。

【吉川暉子さん】
「昔はスーパーマーケットがなかったから、よく来てくれていた子供が。大人もね」

炭鉱で栄えた当時、最大で約2万4千人が住んでいた大町町。しかし、1969年に炭鉱が閉山してからは、にぎやかだった町も人口減少が進み、今では6千人余りになりました。

【吉川暉子さん】
「何軒もあったけど、学校の近くに店。もうやっぱり辞めてしまった、年取って」

町内に残る駄菓子屋は、この店1軒。7年ほど前に安夫さんが亡くなり、今は孫夫婦など、5人で暮らす吉川さん。訪れる子供たちを楽しみに店を続けます。

【男の子】
「おばあちゃん96歳でしょ?」
【吉川暉子さん】
「97歳」
【男の子】
「97歳?あと3歳で100歳だね。頑張ってね」
【吉川暉子さん】
「頑張るね」
【男の子】
「100歳まで生きててね」

町は変わったものの、駄菓子を見つめる子供たちの姿は今も変わりません。

【吉川暉子さん】
「ここのタレがおいしいからね。ありがとう」
【男の子】
「おばあちゃん、イカ4本ちょうだい」

長年、地域の子供たちの成長を見届けてきた吉川さん。子供たちが来るのを楽しみに、きょうも店に出ます。

【吉川暉子さん】
「いつ辞めようか、いつ辞めようかと思っているけど、もう金儲けじゃなくていい。みんなとおしゃべりして子供たちと。きょうは早かったねとか遅かったねとか言って」

【吉川暉子さん】
「いつまでできるかな。まだおつりは間違えない、タバコでも何でも。それで辞めきれないでいる。97歳まで店をすると思わなかったけど、やっぱり店をしないと寂しい」

本当に元気な吉川さんですが、デイサービスなどの介護は、受けたことがないそうで、今も料理をしたりするそうです。

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