日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/9/2)

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2024年9月2日(月)

【旧約聖書】
(主は)心の砕かれた人々を癒し、その傷を包む。詩147:3(協)

【新約聖書】
この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。Iペト2:24(協)

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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。

釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。

使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。

*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。

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 代議士が不祥事を起こすと、その責任が代議士の秘書に転嫁されるというケースを、新聞などでよく見ます。当の代議士はお咎めなしで、その後もそのまま政治活動を続けています。多くの人は、本当は誰が悪いのか分かっているのですが、当の本人はほとぼりが冷めるのを待っているのでしょう。責任を負わされた秘書の方は気の毒なことです。

 ペトロの手紙I、2章18節からは、召し使いたちへの勧めについて書かれています。召し使いとは、要するに奴隷のことですが、奴隷に対して教訓を語るというのは、キリスト教以前には行われなかったことです。それは奴隷に教訓を語っても仕方がないという考えがあったのかもしれませんが、新約聖書にはこういった記述よく見られますので、初代教会の教会員の多くが、こういった奴隷の身分の人々であったと考えられています。奴隷と聞くと、何か悲惨な生活をさせられていそうですが、確かに奴隷は法的に主人の財産ではあるものの、一般的にイメージされるような、手や足に鎖を繋がれて虐げられているというのではなく、どのような主人に仕えているかにもよりますが、比較的マシな生活環境だったと考えられています。ですが、それもどの主人に仕えるかによります。18節には、「召し使いたち、心から恐れ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人だけでなく、気難しい主人にも従いなさい。不当な苦しみを受けても、神のことを思って苦痛に耐えるなら、それは御心に敵うことなのです。」やはり、気難しい主人というのはいるのです。そのような主人に不当な苦しみを受けるというのは、教会に集まる奴隷たちにとっては、共感できることであったはずです。

 そしてイエス自身がそうした不当な苦しみを受け、十字架につけられたのです。その際、イエスは迫害する者に対して何か反抗することはなく、自分の運命を含めてすべて神さまに委ねられたのです。そして、本日の御言葉はこのように言います。「この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。」イエスが十字架につけられることによって、私たちは癒されたと言いまするなぜイエスが十字架につけられたのかというと、それは私たちの罪のためです。私たちが神さまに逆らってばかりいるその罪を、イエスが肩代わりして背負ってくださったのです。そのおかげで、私たちは神さまからのお咎めなしで、今日もこうして生きることが許されているのです。そう考えますと、代議士が不祥事を起こして秘書に責任を負わせる。それと同じことを、私たち人間しているのであり、私たちが罪を犯しているにもかかわらず、その責任をイエスに負わせたのです。それがあの十字架の出来事です。そのことに気づいたとき、私たちは神さまの恵みに目が開かれるはずです。旧約の詩人は歌います。「(主は)心の砕かれた人々を癒し、その傷を包む。」私たちは自分の罪をイエスに肩代わりしていただいて生きています。ですから、私たち自身が、誰かの失敗を肩代わりしなければならないとき、そこにイエスに倣った生き方があることに気づきたいと思います。その生き方は、神さまに喜ばれ、豊かに祝福してくださるのです。


日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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