【廃村】甲斐源氏の一族が開拓した高野集落 

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広島県広島市安佐北区安佐町
小河内にある高野集落

■歴史
弘安6年(1283)6月4日 安芸の守護職武田氏の家臣として、甲斐の国、巨摩郡原田村の出身、甲斐源氏の一族、 原田権之守酉之助が銀山の城を辞して、
永仁・正安 (1293~1301)の頃、 此の空谷(くうこく)に入り老樹鬱蒼 (ろうじゅううっそう)として天の見えない密林を登り その山の中腹に至り 「大方(岡田)よかろう」と腰を下ろして住居を定め、
家名を岡田と命名し、地名を高野と定めて山林を伐開、 田畑を開いて帰農した。
その時、 原田権之守は、守り本尊として 「釈迦御正体」を奉持しており、 それを崇拝していた。

その後、他からの移住者もあって、 人口が増加したため、明徳4年(1393)4月7日高野船出山に一守を建立し、守本尊「釈迦御正体」遷宮し奉り高野八幡神社と命名し、 高野住民全般の氏神とした。
その後、歴代 牛頭城主(小河内氏)の祈願所として崇拝せられた。

天文11年(1542) 5月9日大宰大弐・多々良朝臣(大内義隆)より神領8反地を賜る。
天文年間(1532~1554) 高野八幡神社を船出山東側から西側に移転したが年紀は不詳である。
よってこの船出山の東側の古跡を「古森」と呼ぶようになった。

その後、牛頭城から養山城へ移った小河内氏が滅亡後、 高野祖先10代目の原田権之守之助が領主となって小河内へ神殿を新築し 「養山八幡神社」と命名した。

天文17年(1548) 5月26日遷宮後の高野八幡神社には古跡保存の為、御祭神 「品陀和気命」を勧請し 「高野古八幡神社」と称した。
これにより天文11年5月9日大内義隆公より 賜った御神田8反歩は、養山八幡神社へ譲与された。
享保10年(1725) 再建、享和3年(1802) 改築、明治44年9月神社を薬師堂宅地の上の段に移築遷宮した。

昭和41年10月17日高野部落住民が不在状況になり集合協議の結果、 高野古八幡神社の御神体、太鼓を小河内養山八幡神社に遷宮した。
また、高野薬師堂の薬師如来、釣鐘 (半鐘) は、小河内安楽寺横西福寺に正座してもらうこととした。
薬師如来は不詳であるが、 島根県平田市小境町総本山一畑寺よりお迎えしたものと言われている。


1. 昭和35年頃までは住民一同八幡神社に参拝、 年賀互礼会をいたし御神酒を頂戴し散会していた。
2. 毎年10月19日夜祭に鈴張から宮司 藤川柳太郎氏を招聘し祭事を挙行していた。
「こもしき当番制」 で食事の接待・直会、一夜の宿泊を順番で昭和38年(1963年)の夜祭まで行っていた。
この祭事は、おはぎ祭りと名付け、おはぎを作り神前に供え氏子一同食する
東の山に月の出るとき神官神殿参拝せられる慣例あり

3. 昭和34年度から41年度にかけて、この地の居住者が時代の流れに乗じて地区外に転し 過疎化に至り、以前居住していた戸別代表者会議を当公会堂で開催し、今後の諸問題、財産処分等を協議した結果、全員賛成のもと、高野古八幡神社の御神体を、小河内養山八幡神社に合祀することに決まった

4. その後、社殿は孟宗竹が生い茂り、屋根床を突き破り瓦も崩れ、平成8年頃までは社の形は残っていたが54年を経過した今日、土化に進行中である。
5. それでは先祖に申し訳なく皆様に形あるものを相続してもらうため、この度、増川計が孟宗竹を切り払い整備して標識石柱を建立し、 高野古八幡跡地に設置する


御本尊薬師如来は、 年記不詳であるが、 島根県平田市小境町総本山一畑寺よりお迎えしたものと聞いている。
薬師如来を小河内安楽寺様横の西福寺に維持管理をして貰うことの承諾を得て永久管理をお願いした。
その後、 高野薬師堂は宗竹が生い茂り、屋根床を突き破り瓦も崩れ、 平成29年頃までは形は 残っていたが今日崩壊し、土化に進行中である。
それでは先祖に申し訳なく思い、跡地を後世の皆様に相続してもらうため、この度、増川計が敷地内の孟宗竹を切り払い高野薬師堂跡地を整備いたしに標識石柱を建立し、 設置した。

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