優先順位

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優先順位
 大阪府在住  山本 達則

ある日、何気なくインターネットを検索していると、海外のあるお話に出会いました。「マヨネーズの瓶と二杯のコーヒー」というタイトルで、海外でも大きな反響があったお話です。
ある大学の哲学の教授が、授業が始まると、空っぽのマヨネーズの瓶を取り出し、その中にゴルフボールを入れていっぱいにしました。次に教授は小石の入った箱を取り出し、それを瓶の中にあけ始め、ゴルフボールの間を小石で埋めました。
次に教授は砂の入った箱を取り出し、それもまた瓶の中に入れて隙間を埋めました。そして最後に、二杯のコーヒーを取り出して瓶に注ぎ、砂の隙間をすべて埋め尽くしました。不思議な組み合わせに、学生たちは笑い出しました。
「さて」、笑いが静まると、教授は言いました。

「この瓶は、あなた方の人生を表しています。最初に入れたゴルフボールは、人生で最も大切なものです。それは家族であり、健康であり、友人、情熱など、それさえあれば、あなたの人生は満ち足りたものになります。次に入れた小石は、仕事や家、車など。次の砂は、その他のほんの小さな、ささいなものです。
人生において重要なこと、『ゴルフボール』を大事にしてください。子供と一緒に遊び、健康診断を受け、パートナーと一緒に食事を楽しんでください。掃除や物の修理など、家のことをする時間はいつでもあります。
大切なのは、優先順位を間違わないということです。小石や砂で人生を満たしてしまっては、ゴルフボールの入る余地がなくなります」

ここまで話すと、一人の学生が「コーヒーは何を表しているのですか?」と尋ねました。教授は、「あなたの人生がどれだけ手一杯に見えても、友人とコーヒーを飲む時間はいつでもあるということを表しています」と言って、微笑みました。
人間は誰しも、欲望や損得勘定で動いたり、人の好き嫌いで対応を変えたり、いわゆる「自己中心的」な考えを持っています。そしてその感情は、「家族」に対しても向けられることが多々あります。夫は仕事が忙しくなると、妻や子供の声に耳を傾けなくなったり、邪険にしてしまったりすることがあります。
また、家事を担っている妻にしても、余裕がなくなると、夫の仕事に理解を持てなくなったり、思い通りにならない日常にイライラして、家族に当たってしまうということもあるでしょう。子供は子供で、願い通りにならないことに突き当たると、家族に対する態度や言動が粗暴になることもあるかも知れません。私自身も父親として家族と過ごす中で、大いに心当たりのあることです。
このような日常を俯瞰してみると、夫は家族の幸せのために、必死になって仕事をしている中でのこと。家事を担っている妻にしても、家族のことを大切に思うがあまり、行き過ぎた行動に出てしまうのだと思います。
このように、私たちは優先順位を間違ってしまうことがあるのです。お互いの人生という器の中に、何よりも大切な「家族」というゴルフボールを入れる前に、「仕事」や「家事」、すなわち小石や砂で瓶を満たしてしまっているのです。
もちろん、仕事や家事は適当にこなせばいい、ということではありません。何より大切なのは、家族や周りの人たちに対する「心」の使い方ではないでしょうか。
腹が立つけれど、笑ってみよう。面倒だけど、自分から進んでやってみよう。相手が悪いと思っても、こちらから謝ってみよう。忙しい時でも、しっかり相手の話に耳を傾けよう。そういった心の使い方が、ゴルフボールで満たされる人生につながっていくのだと思います。
天理教では、ご守護を十分に頂くための「順序」の大切さを教えられています。
「まいたるたねハみなはへる」
「人をたすけて我が身たすかる」
まず、種を蒔くという行動があってこそ、その先に芽生えを見ることができます。また、あくまで人をたすけて我が身がたすかるのであって、「自分がたすかったら人をたすけますよ」では順番が逆なのです。それではいつまで経っても、神様のご守護に浴することはできません。
地球上のすべての人は、「幸せになりたい」という願いを持ち合わせています。80億人の人がいれば、80億通りの幸せの形があります。同じ家族の中でも四人いれば四通り、五人なら五通りの「幸せの形」があるでしょう。
私たちは、たとえ家族といえども、人の感情や思いをコントロールすることはできません。自分でコントロール出来るのは、自分自身の心だけです。
その自由になる心を、自分の喜びや欲得のために使うのではなく、人様のために費やすことが、遠回りのようでいて、幸せを心から実感できるための一番の近道ではないかと思います。
空いた時間、たまにはコーヒーを飲みながら友人と語らい、自分自身の日常を振り返ってみてはいかがでしょうか。



神、月日、をや

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、親神様の存在とはいかなるものか、私たち人間が得心しやすいように様々な言い方でお示しくだされています。直筆による「おふでさき」において、はじめは「神」といい、次には「月日」と呼び、さらには「をや」と言い表しています。
神という言葉は、当時、信仰の対象を指すものとして一般的に広く使われており、庶民の多くは、福を招き、禍を避けるためにあらゆる神々に祈願していたものです。そのような背景の中、教祖は、

  たすけでもをかみきとふでいくてなし  うかがいたてゝいくでなけれど (三 45)

と仰せられ、親神様は、それまでに拝み祈祷の対象とされていた神々とは全く違う存在であることを示されました。親神様こそ、この世界と人間を造り、昔も今も変わることなく人間の身体から日々の暮らしに至るまで全てを守護している神である。そのお働きを、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神などと言葉を添えてお説きくだされています。
また、次に親神様を「月日」と呼び、空に仰ぎ見る太陽や月によせて、より具体的にその存在を感じ取れるよう導かれました。太陽の光と熱は、あらゆる物の命の源であり、夜の暗がりを照らす月の明かりもまた、地球の生命にとって欠くことのできない恵みです。
しかもそれらは、何の分け隔てもせず、惜しむことなくこの世のすべてを照らし出している。このような姿を指しながら、昼夜を分かたず、すべての存在に恵みを与えられる親神様の存在を示されたのです。
そしてさらには「をや」という言葉で、身近な肉親への情を喚起させるよう、親しみを込めて親神様を言い表しています。すなわち、親神様ははるか彼方にあり、絶対の立場から人間を支配される、そのような遠い存在ではない。むしろ私たち人間のもとへと、どこまでも身を寄せられつつご守護くださる神様であり、いついかなる時も、すがることのできる親身の親であることを示されたのです。

  にんけんもこ共かわいであろをがな  それをふもをてしやんしてくれ (十四 34)

  にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる (十四 35)

  せかいぢう神のたあにハみなわがこ  一れつハみなをやとをもゑよ (四 79)

これらのお歌からあふれ出る親としての情愛は、いかばかりでしょう。親神様こそ、全人類、すべての子供が可愛いという親心から、人間本来の生き方である陽気ぐらしが実現できるようにと、日夜心を砕き、お見守りくださる真実の神なのです。
(終)

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