日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/8/6)

Описание к видео 日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/8/6)

2024年8月6日(火)

【旧約聖書】
(神よ、)私が床であなたを思い起こし、夜回りのとき、あなたに思いをはせます。詩63:7(協)

【新約聖書】
主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。Iテサ5:10(協)

---------------------------------------

「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。

釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。

使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。

*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。

----------------------------------------
                 
 キリスト教の教理のなかで分かりにくいものの一つが、「終わりの日」、「終末」です。これは「主の日」とか「裁きの日」とか「キリストの日」とも呼ばれます。ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂に描いた「最後の審判」は、まさに終わりの日のイメージを私たちに伝えてくれます。使徒パウロは、終末については、いつ来るのか具体的には言いません。突然やってくるとしか言わないのです。そんな日なんて来ない、安全だと思っているときに、破滅が突然襲うという考えなのです。しかし、現実には終末に無関心で、裁きを無視し、精神的にも道都的にもたるんだ生活をおくっている人々は多くいました。だから、パウロは、他の人々のようになってはいけないと言うのです。

 その終末の裁きから救ってくださるのが、十字架につけられたイエスだというのが、パウロの一貫した主張です。ユダヤ教では救い主は来ていないと考えていますが、パウロは十字架につけられて死なれたイエスこそが救い主だと言い続けたのです。これはユダヤ教では考えられないことでした。十字架にかけられて死ぬ、木にかけられて死んだ者は、呪われた者だからです。そんなイエスが救い主であるはずがないと考えるのです。それをパウロは「主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。」そのように救い主が呪われた者として死ななければならなかったのは、私たちの罪のためにだと言うのです。そのことを信じる者は、終末のときに、生きている者も死んだ者も、同時に一緒に神さまと共に生きるようになる。終末のときに、キリスト者は新しい命に入って行く。それはイエス・キリストの死が私たちのためと信じる者に与えられる命であり、復活の命なのです。

 今の学生は抜き打ちテストを極端に嫌がる傾向にあります。私はすべて事前に予告しますが、先生によっては抜き打ちテストをして、それにブーブー文句を言う学生が何人もいます。テストで良い点数を取りたいから、事前にしっかり備えをしておきたいということなのでしょう。逆に、テストの予告がなければ何もしないということです。終末も、あらかじめいつ来るか分かっていれば、それにスケジュールを合わせて備えることができます。しかし終末は抜き打ちテストのように、いつ来るか分からない。だから、常に備えていなければならないのです。旧約の詩人は歌います。「(神よ、)私が床であなたを思い起こし、夜回りのとき、あなたに思いをはせます。」常に終末に備える。それは常に自分の死に備えるとも言うことができます。自分の死も、いつ訪れるか分からないからです。しかし、イエスを救い主と信じる私たちは、いつ何があろうと、復活の命の道に導かれる幸いを得ているのです。

日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

Комментарии

Информация по комментариям в разработке