バイブル・エッセイ1097『明るい顔で生きる』(聖書朗読とミサ説教:片柳弘史神父)

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説教:
 イエスと弟子たちが山で祈っていると、イエスの姿が変わり、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえたとマタイ福音書は伝えています。イエスこそ神の子と呼ばれるに最もふさわしい者であり、イエスのように生きるなら、わたしたちも神の子として、神の心に適った生き方ができるということでしょう。イエスのように生きるなら、わたしたちの顔も「太陽のように輝き」始める。そう考えてもよいかもしれません。
 このとき、イエスの顔はなぜ輝いたのでしょう。それはきっと、父である神さまの手に、自分のすべてを委ねたからだと思います。十字架上の死を受け入れ、自分の命さえ神さまの手に委ねたとき。すべてを手放し、すべてを神さまの手に委ねたとき、イエスの顔は輝き始めたのです。神さまを信頼して委ねるとき、わたしたちの顔は輝き、我を張って何かにしがみつくとき、わたしたちの顔は曇る。そういってもいいでしょう。
 たとえば、「教会がどんどん高齢化し、集まる人が減っていく。このままでは将来、維持できなくなるかもしれない」と考えるとき、わたしたちの顔は暗くなります。自分たちが作り上げてきた、この教会にしがみついているからです。現実を直視した上で、わたしたちはこう考えたらよいでしょう。「できる限りのことはするが、将来のことはすべて神さまの手に委ねよう。もしこの教会がなくなるようなことがあっても、神さまは、わたしたちが想像できないほど素晴らしいものを次に準備しておられるに違いない」、そのように考えれば、きっと顔は明るく輝き始めるはずです。「教会がなくなったらどうしよう。何としてでも人を集めなければ」と思い詰めた暗い顔の人たちが集まる教会より、「もしなくなっても、神さまがもっとよいものを与えてくださる。いま自分たちにできることを、精いっぱいにやろう」と考える明るい顔の人たちが集まる教会の方が、魅力的なのは間違いがありません。「あんな教会に行ってみたい」と思う人だって、きっと出てくるでしょう。神さまにすべてを委ねて生きる「神の子」の教会にこそ、明るい未来が待っているのです。
教会だけでなく、わたしたち自身にも高齢化は迫っています。年齢が上がり、体が弱って来れば、誰でも自分の死を意識するようになるはずです。そのときもし、「まだ死にたくない。なんとかして生き延びなければ」と考えるなら、その人の顔は暗くなるでしょう。自分の命にしがみついているからです。「いつ死ぬかは、神さまの手に委ねよう。神さまが一番よくしてくださるに違いない」と考えるなら、その人の顔は明るくなるでしょう。自分の命にしがみついて暗い顔で生きるより、すべてを神さまの手に委ね、最後のときまで明るい顔で生きる方が、ずっといいに決まっています。わたしたちのために一番よいものを準備してくださる神さまに信頼し、いつも明るい顔で生きられるよう神さまに願いましょう。

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