小坂一也 ローハイド

Описание к видео 小坂一也 ローハイド

作詞 西沢 爽 作曲 ティオムキン 編曲 大森 俊雄

【小坂和也】
小学校から高校まで成城学園で学ぶ。
衆議院議員の羽田孜とは同級生で親交が深かった
ラグビーに勤しんでいた高校生の1952年の夏に、先輩にあたり、当時“和製ハンク・ウィリアムス”と将来を嘱望されていたワゴン・マスターズのリード・ヴォーカリストの藤沢恵治さんに連れられて、ワゴン・マスターズのステージに足を運んだのが歌手活動の始まりでした。

中学時代からカントリー・ミュージックに惹かれていた小坂さんは、
ワゴン・マスターズに歌進駐軍のキャンプ場などで演奏して回りました。
1952年にワゴン・マスターズにボーカルとして参加。高校中退後の1954年、
コロムビアレコードから「ワゴン・マスター」でデビューしました。
初期の小坂さんはレフティ・フリゼルを手本としていたことで、その歌声に客席から良く
「レフティ!」と歓声が上がったといいます。
他に「青春サイクリング」などのヒット曲があります。
カントリー界のアイドル的存在の歌手として小坂さんは一世を風靡します。
そして、1956年からはいち早くエルヴィス・プレスリーのカバーにも力を入れており、
「ハートブレイク・ホテル」をレイモンド服部さんの訳詞でリリースします。これが小坂さんがその絶大な人気も相まって【元祖和製プレスリー】と称されるきっかけとなりました。

和製プレスリーと称されたものの、小坂さんは足を広げ、エルヴィスのようにギターをかき鳴らし、絶叫するスタイルではなく、あくまでカントリー歌手の範疇での歌唱スタイルでした。小坂さんの歌としてどれも独立しているところが大変な特徴で魅力といえます。
そんな中、1958年2月に社会現象ともなる、第1回日劇ウエスタン・カーニバルが開催されます。
エルヴィスのように足を広げ、ギターをかき鳴らし、絶叫する平尾昌晃さん、ミッキー・カーチスさん、山下敬二郎さんといった“ロカビリー三人男”がこのとき登場します。
小坂さんはこの日劇ウエスタン・カーニバルには出演していません。
日本の“グランド・オール・オプリー”と呼ばれたウエスタン・カーニバルというイベント
自体は1954年から有楽町のヴィデオホールで定期的に開かれ、日劇ウエスタン・カーニバルが
開催される前年の1957年11月にも行なわれ、このとき既にロカビリー三人男も出演していたにもかかわらず、小坂一也とワゴン・マスターズはそのときのトリを務めています。

相変わらずの人気だったにもかかわらず、小坂さんは何故、第1回日劇ウエスタン・カーニバルには出演しなかったのでしょうか? それは、小坂さんのバンドだったワゴン・マスターズがこのとき解散状態にあったからだということでした。

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