「三拍子」中野鈴子

Описание к видео 「三拍子」中野鈴子

🌼青空文庫の新着、中野鈴子「三拍子】を朗読しました。
●テキスト/青空文庫(青空文庫、耕作員の皆様に心より感謝し使用させていただきます)
●人物出典/Wikipediaより一部引用
●曲/MusMus(個人運営のフリーBGM・音楽素材サイト)
●作曲/watson
🍓サイト表記等の利用規約を守り「MusMus」運営者、watson様に心より感謝し使用させていただきます♪
●動画・写真素材/videoAC・写真AC・イラストAC/クリエーターさま
●声/動画編集/サムネ作成/こいでともか
グットボタン&チャンネル登録もお願いします。
小出朋加のナレーション・朗読チャンネルです♪
#中野鈴子 #詩

~いつもお世話になっているサイト~
🍓画像・動画
videoAC/写真・イラストAC/パブリックドメイン/pixabay/いらすとや/publicdomainq/Little Dream/600dpi/Antique public domain images/様よりお借りし、提供者様に心より感謝し使用させていただきます♪
●効果音/効果音ラボ
●音楽/甘茶の音楽工房さま


三拍子

夜中の十二時頃、おくさんが寝室からのぞく
もう寝ていいですよ

足も頭も出てしまう夜具
見たこともない短いふとんの中へ
たおれるように

夜中に、二、三度はね起き
はなれた部屋まで時計を見にゆき
広いエンガワ 広いタタミ
掃除 めしたき

赤ん坊を背中にくくり
破れたふとんを片っ端から解いて洗って綿を入れ
縫いはじめては手をはなし
買い物に走り
洗い物は朝と晩 五本のサオにいっぱい

光がななめにとどく台所の
調理台の片隅に 踏台に腰かけ
おはちの底をかきあつめてようやく茶わんにいっぱい
主人たちの数々の御馳走の影さえみえぬ
何を食べればいいのか
仕方なく立ち上がり

足は棒のように 胸板がうすくなったように
目まいのようにつまずく

最初 雇主はいった
子供もない 亭主もない
そんな人をさがしていたのだ
その上 田舎から出てきた 三拍子揃うていますわ
どうもコブ(子供のこと)のついているのはねえ
五十過ぎのおくさんはあふれるようににこにこした
得意ででもあるかのように

白髪のかみを光らせ 体をそらせている主人
奥様の胸はまだふっくらとして 指はなめらかに 口ベニも赤く
子供はぞろぞろ だみ声と キンキン声と かみの長い 夜のおそい大学生が
お父さま お母さま

一人の女の塗りつぶされた身の上が
一人の女をニコニコさせている
雇主はわたしのうなじにつり竿を垂れ じっとしている。

底本:「中野鈴子全詩集」フェニックス出版
   1980(昭和55)年4月30日初版発行
底本の親本:「中野鈴子全著作集 第一巻」ゆきのした文学会
   1964(昭和39)年7月10日発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
入力:津村田悟
校正:かな とよみ

🌼中野 鈴子(なかの すずこ、1906年(明治39年)1月24日 - 1958年(昭和33年)1月5日)は、日本の詩人。

🌼経歴
福井県坂井郡高椋村(現在の坂井市丸岡町)一本田に生まれた。作家、政治家の中野重治は次兄。坂井郡立女子実業学校(現福井県立三国高等学校)を卒業、郷里で2度望まない結婚をし、2度離婚を勝ち取った。

🌼1929年4月、中野をたよって上京。1930年、検挙された小林多喜二の救援活動の中心を、原泉や村山籌子とともに担った。この活動を通して第一線のプロレタリア詩人として成長し、1931年日本プロレタリア作家同盟に加入した。
1932年1月、宮本百合子編集長のもとで『働く婦人』編集部員となり、昭和東北大凶作取材記事を3回にわたり同誌に連載するなどの仕事をした。この間『戦旗』『ナップ』『プロレタリア文学』『働く婦人』などに詩や小説を発表した。
1936年、結核療養のため帰郷、父母を助けて農業に従事した。

🌼1949年秋、有志とともに新日本文学会福井支部を結成し、朝鮮戦争さなかの1951年4月には「戦争やめよ、県民の平和の声を発表しよう」と、文芸誌『ゆきのした』を創刊した。

🌼筆名は一田アキで、詩集に「花もわたしを知らない」などがあり、『中野鈴子全著作集』が刊行されている。

🌼一本田の生家跡に、「花もわたしを知らない」と刻まれた文学碑がある。

Комментарии

Информация по комментариям в разработке