朗読 中島敦『弟子』

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『弟子』(ていし)は、『論語』をもとにした中島敦の短編小説。中島没後の昭和18年(1943年)『中央公論』に発表された。

※注釈及び口語訳
0:00:00 タイトル

0:00:08 1 子路:仲由。字は子路、または季路。孔子の門人。春秋時代の卞の人。

孔子:孔丘。字は仲尼。儒教の祖。


0:05:01 2『礼と言い、礼と言う。玉帛を言わんや。楽と言い、楽と言う。鐘鼓を言わんや』

礼というのは玉帛(珠を贈るときに添える儀礼用の布)のことではなく、音楽も鐘鼓のことだけを言うのではない)※形式よりも精神を重視すべきことを説いている。

0:13:10 3『古の君子は忠を以て質となし、仁を以て衛となした。不善ある時は則ち忠を以てこれを化し、侵暴ある時は則ち仁を以てこれを固うした』

昔の君子は忠(まごころ)を自分の実質とし、仁(いつくしみの心)をもって自分を守った。他人が不善を行うときは、真心でこれを正し、他人から侵されようとするときは、仁の心によって固く身を守った。

0:18:45 4 子貢:孔子の門人。十哲の一人。
夫子:孔子を指す。本来は大夫の尊称。

0:21:42 5『古の道を釈てて由の意を行わん。可ならんか。』

昔の聖人、賢者の教えを捨てて、私自身(由)の考えを実行してよいでしょうか。

『是ある哉。子の迂なるや!』

これだから困ります。先生の迂遠なのは!

『巧言令色足恭、怨ヲ匿シテ其ノ人ヲ友トスルハ、丘之ヲ恥ヅ』

弁舌がさわやかで表情をことさらにやわらげ、ひどく腰が低い事、また心中に怨みをもちながらその人と友人づきあいとすることを、自分(丘)は恥ずかしいことだと思う。

『生ヲ求メテ以テ仁ヲ害スルナク身ヲ殺シテ以テ仁ヲ成スアリ』

志士仁人と言われる人々は、命を惜しんで心の徳を傷つけることをしないし、身を殺して心の徳をまっとうするものである。

『狂者ハ進ンデ取リ狷者ハ為サザル所アリ』

狂者、つまり熱情家は積極的に行動しすぎるし、狷者、つまり強情な人間はあまりにも妥協がなさすぎる。

『敬ニシテ礼ニ中ラザルヲ野トイイ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆トイウ』

敬いつつしむ心があっても、することが礼にかなっていないのを粗野(理に達しないこと)といい、することが勇ましくても礼にかなっていないのを逆(道理にさからうこと)という。

『信ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤ賊、直ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤ絞』

信を好んでも学問を好まなければ、妄信して自他を傷つける弊害があり、直きことを好んでも学問を好まなければ、義理や人情を無視して厳にすぎるという弊害がある。

0:26:25 6『彼の美婦の口には君子も以て出走すべし。彼の美婦の謁には君子も以て死敗すべし』

美しい女の口舌には毒があり、君子もまた避けて出るべきである。美しい女の頼みは国を亡ぼし、君子もまた危うい。

0:35:00 7『鳳鳥至らず。河、図を出さず。已んぬるかな』

鳳凰は飛んでこないし、黄河からは河図も出ない。もはや私も道を行うすべもなく、これまでである。

0:39:35 8『ここに美玉あり。匱に韞めて蔵さんか。善賈を求めて沽らんか』

綺麗な宝石があったとして、これを箱にいれてしまっておくべきか、いい買い手を見つけて売るべきか。

『之を沽らん哉。之を沽らん哉。我は賈を待つものなり』

もちろん売る。しかし自分は店で買い手を待っていて売るつもりだ。

『褐を被て玉を懐く』

外面を飾らないで内に美しい心を持つこと。

『死者は知ることありや。将た知ることなきや』

死者というのは意識があるのでしょうか、あるいは意識がないのでしょうか。

『死者知るありと言わんとすれば、将に孝子順孫、生を妨げて以て死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、将に不孝の子其の親を棄てて葬らざらんとすることを恐る。』
もし、意識があると答えたとしたら、親が死んだとき、親孝行な子孫は自分の生活を破綻させてでも盛大な葬式をやろうとして、たいへんなことになる。一方、意識がないと答えたとしたら親不孝な者は死んだ親を捨てて、葬式もあげないことになってしまってたいへんなことになる。

『未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん』

生についてまだよくわかってもいないのに、どうして死のことなどわかるものか。

0:48:26 9『我未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ざるなり』

有徳の人を愛することが、美人を愛するのと同じように熱烈な人間を、私はまだ見たことがない。

0:54:16 10
『鳥よく木を択ぶ。木豈に鳥を択ばんや』

鳥は木を選んで滞在することができるが、木のほうが鳥を選ぶことはとうていできない。

『由よ、我汝に告げん。君子楽を好むは驕るなきが為なり。小人楽を好むは懾るるなきが為なり。それ誰の子ぞや。我を知らずして我に従う者は』

由よ、おまえに言うことがある。君子が楽を楽しむのは驕りたかぶる心をなくすためである。つまらない人間が楽をたのしむのは怖れる心をまぎらすためである。このわたしの真意を知らないで、自分につきしたがっているのは、いったい誰ですか。

『窮するとは道に窮するの謂に非ずや。今、丘、仁義の道を抱き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体瘁るるを以て窮すとなさば、君子も固より窮す。但、小人は窮すればここに濫る』

真に困窮するとは、仁義道徳の道にゆきづまることではないのか。いま、わたしは仁義の道をこころに抱いて乱世の災難に遭っているのだから、どうして困窮しているといえようか。もし食料が乏しく体がやつれ果てるのを困窮するというのであれば、君子もむろん困窮する。しかし小人が困窮したら、取り乱してめちゃめちゃになってしまう。そうならないのが、君子と小人の違うところだ。

1:00:30 11
『湛湛タル露アリ 陽ニ非ザレバ晞ズ 厭厭トシテ夜飲ス 酔ワズンバ帰ルコトナシ』

しっとりと草を濡らす露は太陽の光でないと乾かない。夜遅く酒を飲んで、十分に酔っぱらわないと帰らない。(『詩経』「小雅」)

『区々たる一身を潔うせんとして大倫を紊る』
自分の身を清潔にしておくことばかり考えて、結局人間の踏むべき大義を乱している。

1:05:58 12
『十室の邑、必ず忠信丘が如き者あり。丘の学を好むに如かざるなり』

家が十軒ほどしかない小さな村でも、かならず、誠実で言葉を違えないことでは自分に匹敵する人物はいるだろう。ただ、自分ほどの学問好きではないだろうが。

『死して而して後に已む』

仁の完成は死んではじめて終わるのだ。(死ぬまで努力を続けるの意)

1:15:15 13
『天の未だ斯文を喪さざるや、匡人それ予を如何にせんや』

私は周王の伝えた文化をこの身につけている。天の神がこの身の保持する文化を亡ぼすつもりがないのならば、匡の人々ごときが私をどうすることもできないはずである。

『万鐘我に於いて何をか加えん』

万鐘もの大禄を与えられたら、誰でもとびつくかもしれない、しかし考えてみるがいい、そんな大禄は一人では食べきれないし、自分にとって何の足しにもならないのである。

1:18:00 14
『恭にして敬あらば以て勇を懾れしむべく、寛にして正しからば以て強を懐くべく、温にして断ならば以て姦を抑うべし』

うやうやしくして敬の心があれば、勇ある者を従わせることができる。寛大で正しければ民衆をなつかせることができる。おだやかでいて事にあたって決断があれば、よこしまな人間を押さえつけることができる。

『教えずして刑する』

理非を教えることなく刑罰を与える。

『片言以て獄を折むべき者は、それ由か』

いっぽうの言い分を聞いただけで判決を下すことのできるのは、子路だけであろう。

1:23:29 15
『諾を宿するなし』

子路は承諾したことはその日のうちに果たし、翌日にまわすことをしなかった。
 
『吾、太夫の後に従うを以てなり。故に敢えて言わずんばあらず』

私も太夫の末席を汚している身だから、言わずにいられなかったのだ。

1:26:48 16
『柴や、それ帰らん。由や死なん。』

子羔は難を逃れて無事に帰ってくるだろう。しかし、子路は死ぬだろう。

醢(ししびしお):古代の刑罰のひとつで、死刑にして死体を塩づけにすること。


中島敦
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中島敦
1909年〈明治42年〉5月5日 -
1942年〈昭和17年〉12月4日

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