江戸東京写真帳106:浅草寺・ほおずき市・西浅草

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散歩写真スライドショー、暑くなる。#浅草寺 の#ほおずき市 (2023)に行く。蔵前駅から廣澤稲荷、#黒船神社 を見て通り、浅草寺に行く。縁日で人が多く、ほおずき市、露店を見て歩く。西浅草、かっぱ橋本通りの七夕飾りを見る。#清光寺 によって、#徳本寺 へ行く。建物はビル、頼んで中に入り、#佐野善右衛門、宋紫石の墓 を見る。墓参の人に話しかけられ、戦災でみんな焼けたと言う。松が谷、石畳と樹木に惹かれ、本覚寺に入る。#聖徳寺 、#玉川兄弟の墓 を見る。東上野、#報恩寺 、真宗大谷派、中に入って見る。#源空寺の墓地 で、#高橋至時、伊能忠敬、谷文晁、幡随院長兵衛(助六)の墓 を見る。 新御徒町から帰る。
 黒船稲荷神社、平将門の乱を平定した平貞盛、藤原秀郷が、天慶3年(940)に創建した。藤原秀郷は財宝を積んだ黒船に、白狐がいる霊夢を見て、墨田川の浜に当社を勧請した。江戸時代に、散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀して、黒船三社稲荷大明神と称された。
 ほうずき、平安時代から、鎮静剤として利用され、江戸時代に堕胎剤として利用された(下剤、子宮収縮薬 )。咳や痰、解熱、冷え性などに効果がある民間薬として、全草を干して煎じて飲む。「ほほづき」は、その実の赤くふっくらした様子から「頬」を連想し、「づき」は「顔つき」の「つき」をいう。また赤い果実から「ほほ」は「火々」で、「つき」は「染まる」意味であるともいう。果実を鳴らして遊ぶ子供たちの様子から「頬突き」の意ともいう。
 鬼灯、日本の仏教習俗、お盆で、ガクに包まれたホオズキの果実を、死者の霊を導く提灯に見立て、枝付きで精霊棚(盆棚)に飾る。「ほおずき」に「鬼灯」の字を当てるのは、盆に先祖が帰ってくる目印となる提灯とした。
 ほおずき市、港区芝の愛宕神社の縁日に由来する。愛宕神社の縁日6月23,24日で「ほおずきを水で鵜呑みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子供は虫の気を去る」と言われ、人気がでた。(鎮痛作用?)
 浅草寺の「ほおずき市」、7月9日、10日に開催される。観音様の縁日が開かれていたが、室町時代に「功徳日」風習が加わり、千日分の功徳が得られると言い、享保年間の頃に7月10日、「四万六千日」一生分の御利益あるとなった。浅草寺のほおずき市は、約200年前の明和年間に始まった。
 山東京伝の「蜘蛛の糸巻」に、芝 (港区)、青松寺の門前の武家屋敷に奉公する中間(使用人)が、愛宕権現の霊夢を見て、庭で一株の千成りほおずきを発見し、功徳日に青ほおずきの実を神前で鵜呑みにすれば、大人は癪の種(腹の立つ原因)を切り、子供は虫の気を封ずる」とお告げがあった。不思議と効能があり「御夢想の虫薬」と称して、青ほおずきの市が立つようになった。さらに6月24日が観音様の四万六千日の功徳日になって、浅草でも、ほおずき市が始まり、愛宕より盛大になった。江戸時代に青ほおずきは、解熱剤や婦人の胎熱に特効があると言われた。
 浅草寺、伝承によると、飛鳥時代の推古天皇36年(628)、宮戸川(隅田川)で漁をしていた檜前浜成、竹成(ひのくまのはまなり、たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人、土師中知(はじのなかとも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645)、勝海という僧が寺を整備し、観音の夢告により、本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像、公開されることのない秘仏のため、実体は明らかでない。平安初期の天安元年(857)、天長5年(828)とも、延暦寺の僧、円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造った。これらを機に、浅草寺は勝海を開基、円仁を中興開山と称する。天慶5年(942)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に、七堂伽藍を整備したという、雷門、仁王門(現・宝蔵門)など、この時の創建といわれる。
 宝蔵門、雷門をくぐり、仲見世通りの商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建て)。江戸時代に一年に数度2階部分に昇ることができた。昭和39年(1964)に再建された鉄筋コンクリート造。実業家、大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられた。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置し、「仁王門」と呼ばれたが、昭和の再建後、宝蔵門と称する。門の上層は、文化財「元版一切経」の収蔵庫となっている。2体の金剛力士像の向かって左、阿形(あぎょう)像は仏師、錦戸新観、モデルは力士の北の湖という。右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家、村岡久作の作、モデルは明武谷という。
 浅草寺六角堂、元和4年(1618)、江戸時代初期の建立と考えられ、浅草寺内で最古の遺構である。木造で単層の六角造り、瓦(かわら)ぶき形式。建物の基礎は、六角状に廻(まわ)した土台を布石の基礎で支える。下部に11段の石積みをした1.5m余りの井戸上の穴が掘られる。六角堂という特異な形式であり、遺例の少ない貴重な文化財である。もとは、影向堂(ようごうどう)の南に建っていたが、平成6年にここに移された。
 影向堂(ようごうどう)、本堂の西にある。堂内には本尊聖観音像のほか、鎌倉期の円派の様式を示す阿弥陀如来坐像、十二支の守り本尊である八体の仏像を横一列に安置する。 影向堂の周囲に、六角堂、橋本薬師堂、石橋などがある。影向堂の左に建つ六角堂は、室町時代の建立、小規模ではあるが、境内最古の建物である。堂内には日限地蔵(ひぎりじぞう)を本尊として祀る。石橋は、かつて境内にあった東照宮(徳川家康を祀る)への参詣用に造られたもの、元和4年(1618)、東照宮が勧請され、建造された。東照宮は焼失後再建されていない。
 田中山徳生院清光寺、浄土宗。駿州田中(静岡県)にあったが、水戸光圀が開基となり、英蓮社信誉上人了公大和尚を開山として、寛文5年(1665)創建した。  
 岡崎屋勘六墓、歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、号を勘亭。延享3年(1746)江戸に生まれる。境町(日本橋)に住み、御家流の書を指南した能書家。
 勘六は、安永8年(1779)中村座の依頼を受け、従来の浄瑠璃正本の文字などを参考に春の狂言の大名題を書いた。これが歌舞伎文字勘亭流のはじまり。以来、中村座の看板を書きつづけ、独特の書風は鳥居派の芝居絵と共に世に流行し、天明年中(1781-1788)から勘亭流という一家の書法となった。文化2年(1805)59歳で没するまで、劇場のための看板や番付の執筆を業とした。勘亭流は、御家流の書風に様式化を加えたもので、現在も継承され、歌舞伎看板などで使われる。墓石裏面に「ありがたや心の雲の晴れ渡り 貝一筋に向かう極楽」と勘亭流で刻まれる。
 徳本寺、真宗大谷派。1491年(明応元年)円寿によって開山された。元々は三河国(愛知県)に位置したが、関東地方に転封された徳川家康の家臣、本多正信に請われて、1591年(天正19)に江戸神田に移転した。1657年(明暦3)、明暦の大火後、現在地に移転した。墓地に、画家の宋紫石や、田沼意次の子、意知を殺害した佐野政言の墓がある。佐野は、田沼政治に飽き飽きしていた人々から「世直し大明神」として崇められた。
 宋紫石(そうしせき、1715-1786)、江戸中期の画家。長崎で熊代熊斐、清人画家、宋紫岩に画法を学び、宋紫石を名乗る。沈南蘋の画風を江戸で広め、画壇に大きな影響を与えた。山水、花卉に優れる。
 龍鳴山本覚寺、日蓮宗。徳川家康の政治顧問、三河から江戸に随伴した上行院日覚上人が、天正19年(1591)日本橋馬喰町に寺地を賜って創建した。明暦の大火後、現在地に移転した。祖師像は六老僧の一人、日朗上人の作と伝えられ、30日の日に限って願を掛け願いが叶う「日限祖師」として信仰を集める。
 用明山四天王院聖徳寺、浄土宗。聖実清公上人が創建し、享徳2年(1453)に加誉上人良祐和尚が浄土宗として中興した。坪根沢(江戸城)から平河、馬喰町へ移転、明暦3年の大火後、当地へ移転した。聖実が携えていた聖徳太子像は、大正12年の関東大震災で焼失した。 当寺は玉川用水を開削した玉川兄弟(玉川庄右衛門、清右衛門)の墓所である。
 玉川庄右衛門、清右衛門墓、玉川兄弟は、玉川上水、開削工事の請負者で、江戸の町人と言われるが、出身地は明らかでない。玉川上水の開削工事は、四代将軍、家綱の承応二年(1653)一月に幕命が下り、二月に着工された。工事費として幕府から七千五百両が下賜された。羽村から四谷大木戸に至る43キロの導水部は、承応三年(1654)六月に完成した。その後、給水地域は順次拡大され、江戸城内、四谷、麹町、赤坂の高台などの山の手から、芝、京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸初期の土木技術の水準を今日に伝える貴重な文化財である。近世都市江戸の水道施設、建設の功績により、兄弟は二百石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄八年(1695)に、弟の清右衛門は翌年の元禄九年に死去した。明治四四年(1911)政府は玉川兄弟の功績に対して従五位を追贈した。
 高龍山謝徳院報恩寺、真宗大谷派。「坂東報恩寺」と通称、開基は親鸞の門弟の性信。二十四輩(親鸞の高弟の寺院)の第一番である。
 「坂東本」、坂東報恩寺が伝持してきた「顕浄土真実教行証文類」の通称。坂東本が現存する唯一の真蹟本であり、国宝の指定を受ける。「坂東本」は真宗大谷派に寄贈され、京都国立博物館に預託される。「坂東本」とは、坂東報恩寺が所蔵してきたことにちなむ。
 顕浄土真実教行証文類、鎌倉初期の僧、親鸞の著作である。全6巻からなる浄土真宗の根本聖典。真宗十派(真宗教団連合)では、親鸞が「教行信証」を制作したことを立教開宗とし、元仁元年(1224)4月15日に草稿本が完成したとされ、4月15日を「真宗立教開宗記念日」と定める。
 源空寺、浄土宗、台東区東上野にある。 五台山文殊院と号する。本尊は円光大師(法然)像。寺号は法然の諱である源空に由来する。墓地にある高橋至時と伊能忠敬の墓は、国の史跡。
 伊能忠敬墓、墓石は角石で、正面に「東河伊能先生之墓」と隷書で刻む。忠敬は延享二年(1745)、神保貞恒の子、上総国に生まれる。名を三治郎。のち下総国佐原の酒造家、名主の伊能家を継ぐ。名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学、測量、天文などを研究する。漢詩、狂句も良くし、子斉と字し、東河と号した。50歳の時、家督を譲り、江戸に出て、高橋至時の門に入る。西洋暦法、測図法を学ぶ。寛政十二年(1800)、幕府に願い出て、蝦夷地、東南海岸の測里に着手。以来18年間、全国各地を測量して歩いた。しかし地図未完のうちに、文政元年(1818)4月18日没す。享年74歳。地図作製は、幕府天文方が引き継ぎ、没後三年の文政四年に完成。「大日本沿海輿地全図」。俗に「伊能図」と呼ぶ。わが国、最初の実測精密地図である。
高橋至時(よしとき)墓、石の墓碑面に、「東岡高橋君之墓」と刻み、三面には、尾藤二州の撰文を刻む。 東岡は至時の号。江戸中期の暦学者。元年(1764)、大坂御蔵番同心高橋元亮の子、名を至時、字を子春、通称を作左衛門、東岡、梅軒と号した。15歳で父の職を継ぐ。数学、暦学を好み、公務のかたわら、研究に励む。ついで、当時の天文学界の第一人者、麻田剛立の門に入って学ぶ。寛政七年(1795)、改暦の議が幕府で起きると、剛立の推挙で、同門の間重富とともに天文方に抜擢され、同九年、「寛政暦」をつくる。一方、伊能忠敬が命により、実測地図を作成する際に、測量を指導し、完成させた。その関係で、二人は後世「日本地図の父母」といわれる。文化元年(1804)に41歳で肺患のため没した。著書に「赤道日食法」等がある。
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