福岡女学院セーラー服物語

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日本のあちこちで制服として見かけるセーラー服、実は1921(大10)年に福岡英和女学校(現福岡女学院)が採用したデザインが原型となって広まったもの。今も色あせない究極のデザイン、その製作過程には時代の要請や現場のニーズに即した関係者の粘り強い試行錯誤があった。
 物語は一人の米国人宣教師、エリザベス・リー、が当学院の第9代校長に就任したことから始まる。
 リー校長は、セーラー服の導入のみならず10年間の任期中に、今や博多の風物詩となったメイクイーン・メイポールダンスの導入から、校地移転といった経営を左右する大事業まで、次々に斬新なアイデアを具現化していった。今風に言えば、時代の空気を敏感に嗅ぎつけ人々を「アッ」と言わせる、希代の敏腕プロデューサーであった。
 1915(大4)年の就任当時、日本語が苦手であったリー校長はスポーツでコミュニケーションを図ろうと考えた。ところが女学生といえば着物に袴、履物は足袋に下駄が一般的な時代、とうてい激しい運動をできる姿ではなかった。困ったリー校長は自身愛用の セーラー服をもとに新しい制服を作ろうと決意する。
 ここから究極の制服作りへの試行錯誤が始まる。まずは誰に作ってもらうか、当時博多で腕の良いテーラーとして評判であった太田豊吉に白羽の矢が立った。リー校長と豊吉の共同作業はまず素材の確保から始まる。肝心のダークブルーの生地が日本になく英国から取り寄せた。靴下はロサンゼルスから輸入した。当時日本には靴下を履く習慣がまだなかった。履物にいたってはリー校長の靴を参考にオーダーメイドで作った。
 第1号となる40着の製作に数ヶ月、引き続き夏服の作成も行い、その生地は朝鮮から輸入した。また生徒の要望を取り入れ、リー校長のセーラー・ハットから麦わら製のオリジナル制帽も作成した。その後8回の手直しを行い1921(大10)年12月ついに学院の制服として制定された。
 ハイカラを好む大正デモクラシーという背景からか"斬新な制服"セーラー服誕生の噂は全国に広がり、まず北海道から問い合わせが入り、太田豊吉が北海道に招かれた。こうして当学院が試行錯誤の末完成させたセーラー服が、当時の思いもそのままに、現在に至るまでほぼ変わらぬ姿で制服として採用されている。
 当学院では、創立125周年記念事業の一環として、この物語を3分間の動画にしてWEBで公開しています。

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