多摩格差 多摩は日本か東京か 23区とそれ以外の日本

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多摩格差、という用語がある。東京は、実際のところ23区と多摩のふたつのエリアに分かれている。そして財政的に豊かな23区とそんなことはない多摩地域の間では、格差が生じている、と指摘される。

これは歴史的、文化的に根の深い問題なので、自分の観察が及ぶ範囲で、この問題を考えてみることにしたい。

東京の歴史は浅く、現在の東京が形成されるにいたったのは、徳川家康が豊臣秀吉によって江戸への国替えを命じられ、江戸を拠点に定めてから、とされる。ゆえに江戸と東京の歴史は高々400年程度のものと言うことができる。だがしかし、これはいわゆる旧東京市、現在の23区などについての物語であって、多摩地域にはまったく異なる歴史がある。

多摩地域には国分寺があり、府中がある。つまり、このあたりは律令制度だった奈良時代の昔から武蔵国として運営されていたのであり、少なくとも千数百年の歴史を有している。江戸時代になると、多摩地域は幕府直轄の俗に天領とも言われる地域になる。日本の一般的な大名が治める藩と違った点は、幕府の財政が豊かであったために、ここでは年貢の割合が低く、農民自身の所得が多かったことである。

行政は代官が行うことになったが、彼らは大名とは異なり、石高の少ない官吏に過ぎず、部下の数も極めて少なかった。それゆえ彼らの統治方法は、農民の中の名主にあたる者たちに大幅に行政権を委託し、言ってみれば大きな自治権を与える方式になった。農民たちもその負託に応えたが、その代わり、苗字帯刀など武士限定の特権を得ることもできた。

幕末になり、討幕運動が盛んになると、多摩では将軍家を守ろうとする機運が高まり、高価なユニフォームをあつらえ、日頃鍛えている剣術の腕前を活かして、京都に出向いて討幕派と戦おうという新選組という組織がつくられて、彼らを見送り、資金提供も行った。

明治維新で暗黒時代が終わり、明るい日本がはじまったと思う日本人もいたはずだが、多摩地域では事情が異なる。ここでは明治政府は討幕派なのであり、敵と見なされた。23区側の東京と多摩地域ではその歴史も政治意識もまったく異なるのである。

23区の東京と多摩地域の関係はシンガポールとマレーシアの関係と類似していると思う。多摩地域は23区との共通性が少なく、日本の他地域と同じ歴史を共有している。言ってみれば、多摩格差とは、東京(23区)とそれ以外の日本との格差のこと、と見るのが妥当であろうと思う。

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