1914(大正3年)『われは海の子』作詞:宮原晃一郎/作曲:不詳/歌唱:NHK東京児童合唱団

Описание к видео 1914(大正3年)『われは海の子』作詞:宮原晃一郎/作曲:不詳/歌唱:NHK東京児童合唱団

『われは海の子(我は海の子)』は、1914年(大正3年)刊行の「尋常小学唱歌」第六学年用に掲載された文部省唱歌。歌詞は、文部省の懸賞募集に応募した鹿児島市出身の宮原晃一郎(1882-1945)の詩が採用されたという。
歌詞は全部で七番まであるが、今日歌われるのは一般的に三番まで。
 【男性に人気の歌】
 青い海が好き、海で泳ぐのが大好きという人の愛唱歌です。歌えば磯の香りが漂ってくるようです。歌詞が進むにつれて勇ましくなり、声を張り上げて腹の底から歌えると、男性に圧倒的な人気の歌です。
 今歌われているのは三番までの歌詞です。その浜は、どこまでも美しく、少年の明るい心と、たくましい体を作りました。 さわやかなメロディーは、広い音域の中を力強く動き、「わーれは うーみのこ」と、言葉を延ばすリズムの繰り返しなので、とても調子が良く、延ばす音にアクセントをつけると、ますます力強い歌になります。
 漁村に生まれ、海辺に育った少年が、自分を育ててくれた海を歌っています。 歌から少年の一途な気持ちが伝わって来ます。文部省唱歌には、子どもが主人公として登場する歌はほとんどなく、この歌は、自分の歌として歌う事ができたので、親しみが持て愛唱されました。そして、大人になっても好きな歌としてあげる人が多い歌です。
https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/d...

我は海の子 白波の
さわぐいそべの 松原に
煙たなびく とまやこそ
我がなつかしき 住家(すみか)なれ

生まれて潮(しお)に ゆあみして
波を子守の 歌と聞き
千里寄せくる 海の気を 
吸ひてわらべと なりにけり

高く鼻つく いその香に
不断の花の かをりあり
なぎさの松に 吹く風を
いみじき楽(がく)と 我は聞く

教科書から消えた4番以降の歌詞

丈余(じょうよ)のろかい
行手(ゆくて)定めぬ 浪(なみ)まくら
百尋(ももひろ)千尋(ちひろ)の 海の底
遊びなれたる 庭広し

幾年(いくとせ)ここに きたえたる
鉄より堅(かた)き 腕(かいな)あり
吹く塩風に 黒みたる
肌は赤銅(しゃくどう) さながらに

浪にただよう 氷山も
来(きた)らば来(きた)れ 恐れんや
海まき上ぐる たつまきも
起らば起れ 驚かじ

いで大船(おおふね)に 乗出して
我は拾わん 海の富
いで軍艦に 乗組みて
我は護(まも)らん 海の国

【Special Thanks】
「相模の褌漁師」Author:かめさん (亀田壹功)
http://mosikamesan.blog.fc2.com/blog-...

00:08 100年前の絵葉書 波はAI生成 https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-...

00:15 川瀬巴水「伊豆堂ヶ嶌」昭和12年(1937)

00:22 川瀬巴水「房州布良」昭和24年(1949)

00:33 川瀬巴水「伊豆大瀬」昭和12年(1937)

00:40 川瀬巴水 「土佐室戸崎」 昭和2年(1927)波はAI生成

00:47 岡田行一「羽衣海岸の富士」昭和29年(1954) 波はAI生成

01:02 吉田 博「房州海岸」昭和2年(1927)
   「とまや(苫屋)」屋根を菅や茅などでふいた粗末な小屋。漁夫などのあばらやを指す。

01:19 川瀬巴水 「旅みやげ第一集」『陸奥 三島川』大正8年(1919)
   「しほに湯浴して」海水を産湯(うぶゆ)として。

01:32 川瀬巴水 「房州小湊」昭和11年(1936)
   「千里」約4000キロメートルをさすが、ここでは「長い距離を」という意味。波はAI生成

01:45 川瀬巴水 「平潟東町」 昭和20年(1945)

01:55 歌川広重「六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波」浮世絵 波はAI生成
   「高く鼻つくいその香に 不断の花のかをりあり」波を花に喩えている比喩。
    強く鼻をつく磯の匂いは、四季絶えることのない花の薫りのように思われる。

02:09 川瀬巴水「日本風景集II 関西編 讃岐海岸寺の浜」昭和9年(1934)

02:17 川瀬巴水「春の月 二宮海岸」昭和7年(1932)
   「いみじき楽」すばらしい音楽。

02:33 写真:亀田壹功「相模の褌漁師」より
   「丈余(じょうよ)」とは、長さの単位「丈(じょう)」1丈は約3メートル。
   「余(よ)」は「余(あま)り」。「丈余」で3メートルよりも長いことを意味する。
   「ろかい」とは、舟を漕ぐための櫓(ろ)と櫂(かい)のこと。

02:41 写真:亀田壹功「相模の褌漁師」より
   「なみまくら(波枕)」とは、船中で旅寝をすること、船路の旅。

02:50 写真:亀田壹功「相模の褌漁師」より
   「百尋千尋(ももひろちひろ)」の「尋」は、ここでは水の深さの単位。
   一尋は六尺(約1.8メートル)で、左右に広げ延ばした両手先の間の長さ。
   「尋」が百も千もあるということで、海がとても深いことを意味している。

03:06 和田三造「南風」明治40年(1907)東京国立近代美術館(重要文化財)
   『南風』は、明治浪漫派の影響による記念碑的な作品とされる。
   この絵の中で小船の上に立つ逞しい男のモデルは、
   和田 三造(わだ さんぞう)が中学時代に通っていた玄洋社の運営する
   柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。
   https://ja.wikipedia.org/wiki/和田三造

03:28 写真:亀田壹功「相模の褌漁師」より
   赤銅(しゃくどう)は銅と金の合金で、発色処理を加えると青紫がかった黒色を呈する。
   ここでは真っ黒に日焼けしていることを表す。

03:40 「海の画報」講談社の絵本 昭和28年刊より

03:58 鈴藤勇次郎「咸臨丸難航図」
   咸臨丸(かんりんまる)は安政7年(1860年)徳川幕府の船として
   初めて太平洋を往復したことから名を知られる。
   軍艦操練教授方頭取出役の勝海舟、通訳として中浜万次郎(ジョン万次郎)、
   そして福澤諭吉らも乗船した。
   https://ja.wikipedia.org/wiki/咸臨丸

04:11 吉田博「瀬戸内海集第二 鍋島」昭和5年(1930)

04:20 開陽丸(かいようまる)幕末期に幕府海軍に所属していたオランダ製軍艦。【AI生成】
   最新鋭の主力艦として外国勢力に対する抑止力となることが期待された。
   1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争開戦時、
   「開陽丸」は大坂湾にあり、阿波沖海戦を経て、
   1月6日に最後の将軍:徳川慶喜を乗せて品川へ逃れた。
   その後4月11日の江戸城無血開城に至って、榎本武揚(えのもとたけあき)は、
   開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否し続けた。
   そして同年8月19日、開陽を旗艦とした榎本武揚率いる艦隊(回天、蟠竜、千代田形丸)は、
   遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸、長鯨丸、神速丸、美賀保丸)を加えて
   品川沖を脱走。
   10月25日に旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃った。
   しかし1868年(明治元年)11月15日、蝦夷地・江差沖において暴風雨に遭い、
   座礁・沈没した。
   https://ja.wikipedia.org/wiki/開陽丸

04:27 戦艦「三笠」は大日本帝国海軍の戦艦。【AI生成】
   1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、
   連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗。
   1905年(明治38年)5月末、連合艦隊旗艦として日本海海戦を戦う。
   この2日間に亘る海戦では、日本連合艦隊は戦力の劣勢をカバーするために
   敵前T字戦法を採用し、激戦の末大ロシア艦隊を撃破する。
   連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は三笠上で、
   「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」という訓示とともに、
   Z旗を掲げて全艦隊の士気の高揚を図り大勝利を収める。

04:35 北岡文雄「漁港浅春」自刻限定版画作品

04:43 北岡文雄『風の日』昭和50年(1975)

05:01 亀田壹功「相模の褌漁師」より「渚の少年」
   http://mosikamesan.blog.fc2.com/img/2...

Комментарии

Информация по комментариям в разработке