戸田城聖-35)罰と転重軽受〜絶対に御本尊を捨ててはならぬ〜-1)【字幕有効】

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罰という問題ですがね、これは、仏様が罰を与えるというふうにとるのは大間違いです。罰というものは、自分のもっている運命が出るものなのです。罰を与えるとかなんとかということを、よく言うておりますが、そんなもんじゃないのです。
罰というのは、宿業のことです。自分の身にもっているものが出る。今朝、便所行ったらウンコに当たったなんて奴は誰もありゃしない。あれは、体にある物が出たのです。これからちょっと小便に当ててて来るからなんて奴はいやしない。あれは、自分の身にある物が出るのです。
それを罰とも宿業ともいうのです。そんなもの、人に当てられてたまるものかい。
なんぼ仏様でも、罰なんか与えるわけないよ。ただ出るだけのこと。ウンコに当たったなんて聞いたことない。自分の身にある物が出たのです。
御本尊を持っていると軽く出るのです。
「山を登った者は必ず降りなければならぬ」と、大聖人様は仰っています。過去世にもってきた宿業は、必ず出さねばならぬと仰せです。ですから、罰というものは、わが身にあるものが、出るのです。それが軽く出るのが、この仏法の極理なのです。
ですから、おそらく、あなたが受けた運命というものは、今は苦しいかもしれませんが、ワシは軽いものだと思うております。もしそれが、この御本尊を受けなかったら、重く出るんじゃなかったかと、私は思うのです。この御本尊様を頂いておりますれば、出るのが軽く出るのです。
ですから、今でも私は軽いのではないかと思います。
この片腕を取るという、取られたらしょうがない。小指一本取られた、その代わりに。とこれが、これ(片腕)を取られるということを知らない場合に、「なんだ!御本尊様を拝んで小指を取られたじゃないか、そんなばかな話ないじゃないか!」こう言うのです。
しかし、これ(片腕)を取られるということがわかっておって、これ(小指)が取られたのなら「ああ、助かった」とこう思うのです。
そこだ。これを転重軽受法門というのです。そういう法門の理でありまして、私はいまのご質問の方は、それでも、軽く受けているのではないかと私は思うのです。(つづく)



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