いずれ死ぬ、は救いになるか? 死は解放か?

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00:00 OP
00:42 「死」は解放
02:01 死が救いになる理由
06:35 非道徳的にさせる側面
07:50 やりたいことをやるべき?
10:02 つながりは救い

本日は「いずれ死ぬ、は救いになるか」というテーマで、お話ししようと思います。

毎週日曜日は「死 Death」を扱おうということにしていて、毎週「死」について皆さんとディスカッションしています。
今回はいつか死ぬという事実は僕らにとって救いになるのか、というテーマで一緒に考えていきたいなと思います。

■「死」は解放

「死」は解放であるという事実は避けがたいですね。
死ぬということは解放されるということですよね。良くも悪くも。
苦痛からの解放であり、責任からの解放だったりしますね。
苦しい状況から解放される面もあるし、責任ですよね。責任からも解放されます。

だから僕も、別に嫌じゃないんですよ、医師の仕事をしているとかこうやってYouTubeを通じて皆さんと会話ができるとか、社会に貢献できることは全然幸せですし、楽しいことなんです。
でもこれがあと1000年続くと言われたらちょっと嫌ですよね。
この責任から解放されたいなと思いますよ。だからいい意味でも悪い意味でも死は解放であり、休息というのは否定しがたいですよね。

かといって自殺を推奨するとかではなくね、今すぐ死にたいとかね。
今すぐ死ぬのが正しいというわけではなく、一つの側面ではあるのかなとは思いますね。

「死」は解放である。
なので「いずれ死ぬ」のは救いになるかと言われたら、まあそれはそうだなと思いますね。
死は解放など一つの側面としてはあるでしょうという感じです。

■死が救いになる理由

「死」は平等なんですね。
どんな人にとっても死は平等に訪れる。

どんな成功者であっても、どんなに優秀な人であっても、どんなに悪いことをした人でも、どんなに善行した人でも、どんなに親に恵まれていた人、周りの人に恵まれていた人、周りの人に恵まれなかった、不運にも悪い人としか出会えない人生だった人にとっても、どの人にとっても死は平等に訪れるということですよね。
これは救いですよね。

自分だけ嫌な思いをしていたと言うと嫉妬しちゃうし、人間というのは。
嫉妬する生き物なので、嫉妬という脳のメカニズムがある生き物ですから、嫉妬して救いがないんですけれど、死は皆に訪れるということはある意味の救いだろうなと思います。
嫉妬という苦しみから解放されますよね。

皆が死ぬということは、他者の共感他者に対する共感を生むんですよね。
同じ仲間なんだと思いやすいです。いずれ死ぬということは。

ある人は死なない女王蟻みたいな感じで、自分の寿命の5倍くらいある人たちがいて、自分は寿命がね5分の1だったりすると、ちょっと苦しいじゃないですか。
でもそうじゃなくて、平等に訪れるというのは同じ仲間なんだと思えるし、共感が生まれやすいです。

そして脱中心化ですね。
自己中心的にならずに済むわけですよ。みんなが平等だと思えれば。
みんな仲間なのだと思うと脱中心化が行われる。
それはいい作用ですし、その結果人類が皆、道徳的になろうとするわけですよね。

いずれ死ぬから道徳的であろう、いずれ死ぬんだから社会のために何かしていこう。
「いずれ死ぬから、自分以外の仲間のためになにかしよう」と思えるわけで、これは救いですよね。他者にとって救いだと思います。富を独占しないわけだからね。

あとは生は有限ということですよね。
命は有限なんだよ、有限だから貴重だよね、命は貴重だよね、貴重だから自分の命も貴重だし、相手の命も貴重だよねということで、共感が生まれて道徳的になる。

貴重だから失うのが怖いわけですよね。いずれ終わるから死は恐怖なわけですよ。
恐怖というものがあるから僕らは道徳的であろうとするわけですね。苦しいし怖いんですよ。死ぬというのは怖い。
でも怖さを皆が持っているということは救いになるし、皆が死を恐れているからこそ僕らは他者に共感できるわけで。
同じ仲間だと思えるから、仲間意識が生まれて道徳的になるとか、死という恐怖があるから、死後の世界に対する抑制にもなれば、解放されたいというのもないし、解放を急ぐ必要もないわけですね。死の恐怖があるから。

あとは死の恐怖があるからこそ死後の世界を夢想して、死んだ後にあの人はいい人だったねとか、惜しい人を亡くしたねと思われたいから道徳的である、ということもあるだろうし、神様と契約して天国に行けますようにという形で善行を積むかもしれません。

だからいずれ死ぬということは、人々を道徳的にさせるということで良い効果を生むんじゃないかなと考えられます。

あとは世代交代するとか、遺伝子の変化を生むとか、死ぬというのはそういう意味もありますね。
だから、社会にとっても良いことだと思いますね。
死がない社会は生きたくないなと僕も思えます。上がつっかえちゃっている社会はちょっと苦しそうだなと思うので、まあいいんじゃないですかね。

■非道徳的にさせる側面

でも一方で、死は無責任さを生むかもしれないわけですよね。
いずれ死ぬんだからこうしてやれとか、いずれ死ぬんだから、誰かに迷惑をかけてやるとか自分勝手に生きていいだろうという無責任さを生むことも考えられます。

攻撃的だったり自己中心的であったりすると、いずれ死ぬのは怖いだろう?じゃあ、俺の言うことを聞けよみたいな感じで暴力に訴えるとか。
無敵の人みたいな形で、死刑にしてもらいたいから誰かを殺すみたいなこともあったりするのかなとは思います。

いずれ死ぬという事実は、人々を道徳的にさせるのではなく、逆に非道徳的にさせる側面というのもあったりします。
脱中心化が行われない状況では道徳的ではなくなっていって、自己中心的な状況で死を理解してしまうと悪い方に行動してしまうこともあったりします。

それは次の不幸を生み出したり、誰かの迷惑になったりするので望ましくないでしょうということです。

■やりたいことをやるべき?

あとはよくあるのはお金は使い切って死ぬべきだとか、いずれ死ぬんだからやりたいことやるべきなんだ、みたいなことを言う人はいますよね。
こういう言葉は流行っていますよ。

現代ではすごく流行っていて、よくネットとかで成功者の人とか若者は言うんですよね。
「お金は使い切って死んだ方がいい」「自分のために人生を使うべきだ」とか言ったりしますよね。
ヤングケアラーとかうつの人とかは他人に奉仕しやすい人たちなので、こういう人の発言を聞くと「やっぱそうだよね、すごいな」とか思ったりするみたいですね。

大衆というのは自分勝手に生きたいですから、皆誰しも。
それを体現する人たち、それで成功していて周囲の注目を浴びたりしている人たちには、すごく惑わされたりします。

でも、これはあまりいいことではないんですね。
自己中心的であることは違うよと僕らは言うわけなんですけれども。
これってかえって不幸にしますよ、ということですよね。

僕らは治療の中で患者さんに促すのは「脱中心化」なんですよね。
脱中心化していくことによって、不幸とか不安とか苦しみから解放されていくんですけれども、こういう発言は自己中心化を促すので苦しくなっていくんですよね。
成功するんだったらいいけれど、すべての人が成功するわけではないので。

自己中心的で許されるのは若者だったり、成功者のみ、権力者のみなので、大衆である我々はこの価値観は本当は違うんだよね。これは理解してもらう方がいいです。

お金というのは使い切って死ぬよりも、使い切らずに誰かのために残して死んだ方が幸せなんですよ、本当は。

■つながりは救い

つながりというのは救いなんですね。
社会と繋がっているという感覚は救いなんですよ。

僕らが不安や苦しみから逃れるにはこのつながり、自己中心化を離れて社会と繋がっている、世界と繋がっている感覚を持てることは大事なんですね。

これは古今東西すべての宗教、思想、哲学の中で語られていることですね。全てと言うと言い過ぎですけど、ほとんどのものでは語られています。
信仰というのは一人の人が作り上げたものではなくて、思想は一人の人が作り上げたものではなくて、一人の天才を中心にいろんな人が考えて付け足して、そして引き継いできた考えなんですよね。
思想体系なんですよ。人類の財産ですよ。

それらは古今東西さまざまなものがあるけれども、多くのものはつながりを持つ、つながりを感じられる脱中心化ができることを目標としているし、それは良いものだと教えてくれているんですね。
これは本当にそうだと思いますね。

この脱中心化が起きるように、僕らは持っていった方がいいんだけれども、カウンセリングの目標もそちらの方に実はあるんだけれども、今時の流行り言葉と逆のことを言っていたりします。

どちらが正しいのかはよくわからないですけど、資本主義とかそういう意味では良いですよ。
お金を使ってもらった方が良いですから、残してもらうとかね。
子孫のために使うよりも今使い切ってもらう、娯楽とかに消費してもらった方が会社にとっては都合がいいので言いますけどね。

人々の繋がりというよりは、自分勝手にやってもらった方がいいわけですよ。
将来の子孫のために高い服を買わないとかよりも、高い服を買ったり娯楽に使ってもらった方が経済は活性化するのでいいのかもしれないですけれども、それが巡り巡っているわけだから、他の人のためとも言えるんだけども、自己中心的な考え方を促しそうで何か苦しそうだなと僕は見えてしまいます。
患者さんとかもそうなのかなと見てますけど。

※ここでいう子孫とは、血縁関係にある子孫だけでなく、次世代の若者たち全般、部下や後輩なども含む、と広く解釈してください。

ちょっと話がずれたような感じがするかもしれないですけど、全部つながっています。
いずれ死ぬという事実は救いになるかという意味では、死は解放であるという意味でも救いになるし、共感性を生む、道徳的になれるという意味でも、他者の死、自分の死だけでなくて他者の死というのもいいですね。世代交代など色々な意味で死ぬことは救いになるとは思います。

ただ、これが自己中心的なものになってしまうとすごく暴力的なことを生みかねないので、救いにならない側面もあったりする。だから僕らは脱中心化が行われる上で死を受け入れる、ということがとても重要だということだったりしますね。

脱中心化していくということであれば、自殺は自己中心的な行為なので、基本的には望ましくない行為ですから自殺を選ばないということにもなっていくということですね。

今回は、いずれ死ぬは救いになるか、というテーマでお話ししました。

#精神科医 #益田裕介 #オンライン自助会

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