【今川氏真と掛川城攻防戦】戦国大名今川氏 滅亡す

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moka studio2020です。この動画は、今川氏真と掛川城攻防戦について説明した動画です。
 掛川城は、文明年間に今川氏親が懸川荘の荘官に任命されたことで築かれました。遠江進出を狙い、重臣の朝比奈氏に命じて築かせたのが始まりです。当初は、現在の掛川城の北東500mにある、天王山の上に築かれました。現在は本丸跡地に龍華院(りゅうげいん)が建立されています。主郭と二ノ丸の間には、現在も巨大な堀切が残っています。1513年、朝比奈氏が現在の地に掛川城を築きます。
現在の掛川城は、標高56mの独立丘陵である龍頭山に築かれた平山城です。南側を蛇行する逆川とその支流を堀として取り込んで縄張がされています。現在のような形に整備されたのは、この攻防戦よりも後の、山内一豊の時代です。
 1568年に信玄が駿河に、家康が遠江に侵攻を開始します。12月13日、信玄が駿府に侵入すると、氏真は今川館を捨てて2日後の15日に掛川城に逃げ込みます。家康もほぼ同時に遠江に侵攻を開始し、18日には浜松城(引馬城)に入りました。さらに進軍して掛川城を包囲した家康は、掛川城を力攻めにせず、周囲に付城を築いて包囲します。しかし掛川城は今川氏の重臣ナンバー・ワンの朝比奈氏が三代にわたって築きあげた名城で、徳川軍の猛攻にもかかわらず、城は容易に落ちませんでした。このため家康は、信玄を駿河から追い出した暁には、駿河を氏真に戻すという条件で和睦したと言われます。これが事実かどうかわかりませんが、家康は自身の駿河・遠江支配の正当性のために、氏真が必要としたのではないでしょうか。こうして氏真は、妻の実家である北条氏康を頼り、小田原城に落ちのびていくこととなります。

【参考文献・サイト】
【遠江】掛川城攻め付け城群 加藤理文 『歴史群像』2023年4月号
『戦国今川氏 その文化と謎を探る』小和田哲男 1992年

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