日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/8/7)

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2024年8月7日(水)

【旧約聖書】
主を畏れることは知恵へと導く諭し。箴15:33(協)

【新約聖書】
世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。Iコリ1:21(協)

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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。

釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。

使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。

*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。

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 コリント教会というところは、信徒同士でずいぶんと仲が悪かったようです。コリントは港町で、その土地柄、裕福な人々も多く住んでいました。ですので、教会内部では豊かな人とそうでない人が混在し、またよく勉強している人もいれば、そうでない人もいる、色々な派閥のようなものもあったみたいです。豊かだけれども仲の悪い教会なのです。

 なかでもよく議論されたのが、十字架で死んだイエスが本当に救い主なのか、という点です。ユダヤ教では「木にかけられた者は呪われる」と律法に書かれていることに従って、十字架で死んだ者は呪われた者と考えますから、そうしますとイエスはそれこそ呪われた者なのです。屈辱的な死なのです。それを救い主とすることに抵抗を感じる者が、少なからずいたのです。ならばなぜこの教会に来るのかと思ってしまうところもありますが、それだけユダヤ伝統の考え方は根深いということです。そう簡単には解消されないのです。そのように十字架で死なれたイエスを救い主とする考え方に批判的なのは、実は知識が豊富なエリートたちでした。彼らは自分たちの持つ知恵と知識を誇り、真の知恵者だと自認していたのです。彼らは自分たちの知っている範囲のことで物事を判断しますから、そうしますと、十字架は呪いであり、それを救い主というのは、愚か者の言うことだと言い放つのです。パウロは、このようなインテリたちと戦うことになります。パウロは言います。「世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。」人間の知恵では、私たちが推し量ることのできない神さまのことを知ることなどできるはずがありません。その人間の限界を知っていれば良いのですが、それを認めようとしないインテリたちには、宣教という手段で働きかけなければならないのです。バウロが「宣教という愚かな手段」と言うように、宣教とは様々な困難があり、その努力が徒労に終わることさえ、常に覚悟しなければならないことです。それは確かに「愚かな手段」としか言いようがありません。神さまは十字架を通して救いを示されました。そのことを、自分の知恵を捨てて、そのまま信じることができれば、愚かな手段をとることはないのです。箴言にはこのように書かれています。「主を畏れることは知恵へと導く諭し。」神さまを畏れる。それは自分の限界を知ることです。そうすることで、私たちでは推し量ることのできない神さまの知恵が、私たちに示されるのです。

日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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