猿喰

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北九州市門司区猿喰(さるはみ)は、西は戸ノ上山の東麓から、東は周防灘に面した東西に細長い地形です。北は同区の伊川、南は同じく畑に接します。周防灘に面した海面の半分程度は、新門司第2期臨海造成地として埋立てられ、企業が進出して、新門司北の町名になっています。昔、大猿が作物を食い荒らしたため射殺したところ、その祟りがあったため、祠を建てて霊を慰めたとの話が伝えられ、地名の由来になっています。

西側の山手には、南北朝時代、骨肉の争乱の果てに落城した猿喰城跡があります。猿喰城の北西約1.2km、県道71号新門司港大里線の南の戸ノ上山から伸びた台地上に柳城がありました。鎌倉時代、門司関に下総親房(しもふさちかふさ)が下向して来ました。下総氏は鎌倉末期頃より門司氏と称します。門司氏の本拠は関門海峡の早鞆瀬戸を望む門司城でした。猿喰城も柳城も門司城の出城として築かれ、門司氏一族が守りました。

南北朝時代、一族は南朝方・北朝方に分かれて争いました。猿喰城と柳城は同じ南朝方でした。1363(貞治・じょうじ2)年、北朝方の門司城主門司親尚(ちかなお)と大内弘世は南朝方の門司親通(ちかみち)が守る柳城を攻めました。門司親通は再三の攻撃を退けます。この折、弘世は負傷します。

大内弘世の子、満弘は柳城の親通に北朝方に寝返るように画策します。門司親通は説得に応じ、北朝方につきます。親通は南朝方の猿喰城主門司親頼(ちかより)を裏切り、門司親尚軍と大内軍を猿喰城に導き、攻め寄せます。城主門司親頼以下73名全員は城を枕に討ち死にし、猿喰城は落城します。ここに大内氏は豊前進出の第一歩を印しました。

東側の周防灘に面した地内には、江戸時代、石原宗佑(いしはらそうゆう)により開作された猿喰新田があります。大里村の庄屋であった石原宗佑は村内の開拓事業を行いました。1757(宝暦7)年、石原宗佑は村役を辞して、猿喰新田開作に専念しました。特に堤防築造には私財を投入して、実弟柳井賢達と共に猿喰新田を1759(宝暦9)年完成させました。石原宗佑は新田開作の手腕を買われ、85歳の高齢で小倉藩の曽根新田開作に尽力しました。

江戸時代から1889(明治22)年まで猿喰村でした。1889(明治22)年、猿喰・畑・今津・吉志・恒見・伊川村が合併して松ヶ枝村になりました。1942(昭和17)年、松ヶ枝村は門司市に編入されました。

猿喰の西隣は門司区大里です。大里側ですが、その境界付近について触れてみます。神戸の鈴木商店は多くの工場を大里に建設しました。そのひとつの大里製糖所は、1903(明治36)年に設立、翌年操業を開始しますが、1907(明治40)年、大日本精糖に売却しました。その後、苦境に落ちていた大日本精糖社長に藤山雷太が就き、再建しました。藤山雷太は幾多の企業を拡大させ、藤山コンツェルンの基礎を築きました。その中核が大日本精糖でした。息子藤山愛一郎は雷太の跡を継ぎますが、戦後岸内閣で民間人として外相となり、その後政治家になりました。

大里製糖所は大日本精糖門司工場になりました。その工業用水確保のために、1915(大正14)年に大久保貯水池を築造しました。その場所が猿喰との境界近くの大里側になります。幾多の変遷の後、現在、大日本精糖は明治製糖と合併して、大日本明治製糖株式会社になり、門司工場は関門製糖株式会社になっています。

1950(昭和25)年、門司市は大久保貯水池の周辺を公園墓地にすることを計画しました。現在、大久保貯水池の東側は墓地が点在する城山霊園になっています。1981(昭和56)年、城山霊園の奥に東部斎場は建設されました。現在北九州市の火葬場は、この門司区猿喰の東部斎場と八幡西区本城の西部斎場に統合されています。

県道71号新門司港大里線を大里から、都市高速の大里インターの入口を通って西に向かいます。猿喰城跡の城山が見えてきました。そのまま進むと、城山の南にある鹿喰(かじき)峠の鹿喰トンネルを通って新門司に向かいます。その手前、城山霊園入口交差点から城山霊園に入って行きますと、大久保貯水池があります。

貯水池沿いに右、東に行き、貯水池の東端から貯水池の北側を左、西に向かいます。大久保貯水池の北側半分までは城山霊園で、車でも行けます。その先の西に行くのは歩きになります。西端に堰堤があります。堰堤にはレンガ造りのアーチ橋風の溢水口があり、貯水池の中に円筒形の取水塔があります。堰堤下に下りて行きます。「甘泉」の藤山雷太の書が掲げられています。

大久保貯水池の西側から猿喰城跡の標高208mの城山が見えます。城山の右、南側には鹿喰峠があり、県道71号新門司港大里線は新門司に向かいます。城山の左、北側に七ツ石峠があり、そこを通って猿喰の海側に出ます。

大久保貯水池を離れて東に進むと、道は二つに分かれます。左を進むと、北九州市東部斎場に着きます。分かれ道まで戻り、もう一方の道に進みます。先方右手に城山が見えます。先に進むと、直進と右折の道に分かれます。右に曲がると、県道71号新門司港大里線の東部斎場入口交差点に出ます。直進の右先は城山の猿喰城跡登山口になります。直進のその前の道辺りを七ツ石峠といいます。

七ツ石峠を東に少し下ると、道の横に階段があります。階段を昇り、崖の横を昇る小道を道路沿いに進むと、7つ並んだ墓石が立っています。猿喰城で討ち死にした者達は、恨みを抱いて死んでいったといわれています。これは、死んだ7人の武士の霊を慰めるために建てた石塚ともいわれています。七ツ石峠はこの七ツ石に由来します。かっては峠道の左右に3つと4つに分かれて立っていましたが、道路拡張の後、7つが道路より高い場所に並んで立っています。

峠道を東に下って行きます。九州自動車道の下をくぐり、右手の新門司病院の前を通ります。県道25号門司行橋線の門司学園入口交差点に出ます。そこを直進しますと、門司学園が見えてきます。その途中の左手に厳島神社があります。兄石原宗佑と共に猿喰新田開作に尽力した弟柳井賢達を称えて創建された社です。猿喰新田には、厳島神社がこの北と共に南にもあります。

左にカーブして門司学園の前に来ました。県立門司学園は中高一貫校です。かってここは門司北高校でした。その敷地内に2004(平成16)年4月、門司学園中学校が開校しました。2007(平成19)年4月、門司高校の敷地(門司区丸山3丁目)に門司学園高校が開校しました。2009(平成21)年3月、門司・門司北両高校は閉校になりました。2012(平成24)年、門司学園高校はここに移転し、中高一貫の教育が同一場所で行われています。カーブした所の門司学園の前に、猿喰新田開作の石原宗佑翁頌徳碑が立っています。

門司学園の横を海の方に入って行きます。先に行くと右手に新しい堰があります。通って来た道は、江戸時代湾入していた海岸を閉め切った約430mの堤防です。堰の横から川の側に降りて行きます。堤防の内側は潮溜まりといわれる遊水路になっていました。堤防の内側の潮溜まりに塩分濃度の高い悪水が溜まり、潮抜き穴の樋門から排水されました。潮溜まりといわれる遊水路は、現在川が流れています。左手に猿喰新田が広がっています。

潮抜き穴の樋門は堤防の下を通って、トンネル状に新田側から海側に通じています。海側の潮抜き穴の樋門には唐樋と呼ばれる仕切戸が設けられました。唐樋は堤防の外側にしか開かない仕組になっていました。満潮時に戸は閉まり、干潮時に新田から海に排水されました。

堤防の先を海側に進みます。江戸時代の堤防の外側を見ると、石組みの堤防と潮抜き穴の樋門が見えます。現在の堤防はこの先、猿喰大橋の先に伸びています。潮抜き穴の排水用の樋門は現在は機能していません。新たな排水口が設けられています。
 
堤防の上に猿喰大橋が架かっています。猿喰大橋には、新門司道路が通っています。猿喰大橋の下の堤防の先は猿喰海岸です。周防灘が望めます。左手北側は柄杓田漁港です。右手南側に軽子島という小島がありますが、今は陸続きになっています。陸続きの先はマリーナやフェリー乗り場、倉庫がある新門司になります。

潮抜き穴の樋門のある江戸時代の堤防まで戻ります。猿喰新田の周囲に道路が通っています。新田の東側を通って、南側に回ると、田圃の端に小さな森があります。そこは新田開作時勧請された厳島神社です。干拓前、ここは湾入した海の中の島、裸島でした。鳥居を通って森の中に入ると、厳島神社の石祠があります。猿喰新田には北と南に二つの厳島神社があります。

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