「昭和の歌姫100人を歌う」No.053 伊藤咲子 / ひまわり娘 / 乙女のワルツ / きみ可愛いね / 木枯らしの二人 / cover:伸[nobu] With 仲間達

Описание к видео 「昭和の歌姫100人を歌う」No.053 伊藤咲子 / ひまわり娘 / 乙女のワルツ / きみ可愛いね / 木枯らしの二人 / cover:伸[nobu] With 仲間達

皆様、こんばんは。「昭和の歌姫100人を歌う」No.053です。今回は「伊藤咲子」さんです。伊藤 咲子さんは、1958年4月2日生れの、現在66歳です。彼女が生まれた日は病院の周りの桜が満開で、母親は「桜子」と名付けたかったが、親戚一同から“芸能人みたいでおかしい”と反対されて「咲子」と名付けられました。
1973年(昭和48年)15歳で日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』に出場して優勝。これを機に芸能界へ入りました。
翌年の4月20日、東芝EMIからデビュー・シングル『ひまわり娘』を発売。アイドル歌手としてデビューしました。
しかしその年のレコード大賞、日本歌謡大賞の新人賞は受賞ならず。
同年末に発売のシングル『木枯しの二人』が、翌1975年のオリコン年間ヒットチャートで36位にランクイン、自身最大のヒット曲となります。
1975年(昭和50年)『乙女のワルツ』が日本テレビ音楽祭金の鳩賞、
日本歌謡大賞放送音楽賞などを受賞します。
1976年(昭和51年)3月5日『きみ可愛いね』を発売しヒット曲となりました。
同年10月5日、『想い出のセンチメンタル・シティ』を発売。
同時に、デビュー以来のシングル盤の総数が200万枚を突破したと発表されました。
同年末、第27回NHK紅白歌合戦に初出場し「きみ可愛いね」を歌唱。
『想い出のセンチメンタル・シティ』が同年のレコード大賞候補にノミネートされました。
結婚前に、同期デビューの城みちると3、4年間交際していたことをお互い明かしています。
1984年(昭和59年)には、デビュー10周年を記念して写真集を出版しました。
1989年(平成元年)に 青年実業家と結婚。
歌手活動を休止し「伊藤咲子の店」を開業。
カラオケパブを経営し、伊藤がアイドル歌手であった頃のファンが度々訪れたといいます。
歌手活動休止中に子宮腺筋腫を発症し、急性腎盂腎炎も併発。2000年(平成12年)に摘出手術を受けます。
「もう一度歌いたい」との思いで病気を乗り越え、2003年(平成15年)には歌手活動を再開しました。
2004年(平成16年)実業家と離婚。
同年6月と9月にデビュー30周年記念コンサートを東京都内で開催しました。
2010年(平成22年)に40代の会社員と再婚されました。
コンサート活動も継続し、近年は「夢スター歌謡祭 春組対秋組 歌合戦」に出演して全国各地を回っています。
『スター誕生!』決戦大会に黄色のワンピースで出場したからか、デビュー曲は『ひまわり娘』に決まりました。
その後事務所やレコード会社の戦略により早く世間に伊藤の顔を覚えてもらうため、全身黄色の服を渡され、それを着て歌手活動を始めます。
デビュー後しばらくは歌番組やイベント時だけでなく次の仕事場へ向かうために街を移動する時も常にこの格好でいなければならず恥ずかしかったとそうです。
懐かしいディスコグラフティーと共に、お聴き頂ければ幸いです。

現在、僕や歌のパートナーの新二郎さんの大切な歌仲間であり大先輩でもある女性が癌と闘っています。
僕達は医師ではないので、彼女に対して出来る事に限りがあります。
そこで新二郎さんと相談して、お百度参りの代わりに、
「昭和の歌姫100人を歌う」と題して僕はPOPSと歌謡曲、新二郎さんは演歌を中心に、
昭和デビューの女性ボーカリストの歌を100人カヴァーし、彼女の完治を願いたいと思います。
癌の治療はとても辛いですが、現在の医療はかなり進歩しています。
どうか一日も早く完治しますように。
昭和の歌姫たちの懐かしいディスコグラフティーと共に、お聴き頂ければ幸いです。
……………………………………………………

初めて聴いてくださった方へ。
改めまして、はじめまして。伸(nobu)と言います。
私のページに来て下さり、有難う御座います。

僕はもう10年以上前になりますが「喉頭癌(声帯にできる癌)」を患い、声を失いかけました。
その1年前に初めての癌を患い、再発からの転移でした。
定期健診を欠かさなかったお陰で、初期の段階で見つかり、
すぐに処置をして頂き助けて頂きました。
しかし、暫くの間、歌うどころか喋る事すらままならない状況になりました。
当時の私は、喋る事も仕事の一つだったため、
それはとても辛く悲しかったです。
もしかしたら、もう「声」と言うものには頼れないのでは?
そんな思いを持ちました。
声が出せなくたって目だって見える。耳だって聞こえる。
体だって自由に動く。
何だって出来るじゃないか!そんな風に自分に言い聞かせた時もありました。

医師の「ある程度までは声は戻るよ」と言う言葉を信じ
喉を使っても良いと言われてからは、リハビリをして
毎日、家の近所の日の落ちた船着き場に車を止めて
大好きな中島みゆきさんの曲や、徳永英明さんの曲を聴きながら声を出す練習をしました。
思うように声が出なくて悔しくて泣いて車を叩いた日もありました。
誰にも聞かれたく見られたくなかった。
だから車の中は僕のリハビリ室でした。

その甲斐あって、医師も驚くほど回復し、
現在では喋るだけでなく歌う事も出来るまでになりました。
確かに、以前の自分の声ではなくなりましたし
今でも1曲全てを声もかすれずに歌う事は難しい時もあります。
でも、大好きな歌が歌えます。
友人の医師達や支えてくれた周りの人達に心から感謝をしています。
そして無理だと言う僕に、何度ももう一度歌おうと強く勧めてくれた大親友にも!

そして2013年7月にまた、新たに疾患が見つかりました。
とても症例の少ない難病だと告げられ、同年10月には障害者となりました。その為、定期的に入院生活を強いられています。
明日はどうなるか解りません。

「負けたら終わり ではなく あきらめたら終わり」
「笑って生きるも一日、泣いて生きるも一日、どうせなら笑顔で」
この二つは私の座右の銘です。

世の中には、色んな病や悩みなどと闘っている人達が沢山いると思います。どうか諦めないで下さい。

私は大好きな歌を笑顔で歌ってここに載せて行きます。
ここには沢山の歌の上手な方々が掲載されています。
私の歌はその方々には程遠いものです。
でも、歌えるようになりました。
良かったら聴いてみて下さい。
そして何かの切っ掛けにして頂けたら嬉しいです。
ありがとうございました。

Комментарии

Информация по комментариям в разработке