「昭和の歌姫100人を歌う」 No.061 石野真子 / 狼なんて怖くない / わたしの首領 / ジュリーがライバル / めまい / cover:伸[nobu] With 仲間達

Описание к видео 「昭和の歌姫100人を歌う」 No.061 石野真子 / 狼なんて怖くない / わたしの首領 / ジュリーがライバル / めまい / cover:伸[nobu] With 仲間達

皆様、こんばんは。「昭和の歌姫100人を歌う」No.061です。今回は『石野真子』さんです。石野真子は、1961年〈昭和36年〉1月31日生れの、現在63歳です。実は若い頃、親友がアイドルを目指していて、スター誕生のオーディションを受けていて、親友が一人でオーディションに行くのが嫌で、オーディションのはがきを、僕の分も送り、そのため、友人と共に地元の名古屋テレビに一緒にオーディションを受けに行っていました^^
友人と共に地方予選を勝ち抜き、テレビ本選にも行きました^^
僕たちの本選が、この石野真子さんが過去最高得点で合格した翌週の放送でした^^;;;
僕も友人も数点、合格点に届かず、その先には行けませんでしたが、
スター誕生としては石野真子さんと同期です^^ちなみに僕はアイドルになりたいとは、これっぽっちも思っていませんでした^^;
そんな縁から、とても彼女を応援していました^^
ちなみに、本選のあと、審査員をされていた平尾昌晃先生に声を掛けて頂き、自分の教室に通わないかと誘って頂きましたが、
芸能界を目指していなかった僕としては「先生、すみません。僕、芸能界に興味がなくて…」というと、
「ええ?じゃあ何で受けたの?」と驚かれ
友人の事を説明すると「君が受けなかったら他の人が繰り上がったのにね」と笑われてしまいました^^;
そのあと、先生が食事に連れて行って下さり、それが縁で、東京に就職してからも、芸能界に全く関係ない所で、何度も先生に食事をごちそうになっていました^^;
先生いわく「君とご飯を食べるとご飯がおいしい」との事でした^^;
更に「君は歌手よりお笑い向きだな」とも言われていました^^;
まさか、この年齢になってこうして歌を歌う様になるとは、その頃は想像もしていませんでした^^;

さて石野真子さんは、中学3年後期、父親に「歌のレッスンを受けたい」と相談すると、「きちんとしたところに通うんやったら、ええやろう」と許可。
平尾昌晃歌謡学院大阪校のオーディションを受けて合格、同校のレッスン生となり通うことになりました。
このころにデビュー前の川崎麻世と文通をしていたそうです。この時期二人は、共に平尾昌晃歌謡学院大阪校へ通う生徒でした。
翌年、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に応募ハガキを出します。
予選会を勝ち進み、本選の大阪大会に出場。ダニエル・ビダルの「天使のらくがき」を歌いました。
審査発表では会場の一般審査員からの得点だけで合格点を超えてしまい、阿久悠ら専門審査員を驚かせました。
合格ラインは250点で、この日の石野の最終得点は530点になり1,000点の過半数を独占した結果になりました。
『スター誕生!』第20回決戦大会に出場。スカウト意向の芸能事務所プラカードが16社挙がりました。
同決戦大会の合格者には石野の他、翌1978年の同期歌手デビューの渋谷哲平がいました。
1978年3月25日、デビュー・シングル「狼なんか怖くない」(作詞: 阿久悠/作曲: 吉田拓郎)がビクターから発売。
3月27日、デビュー2日目にフジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演。
8月27日「西武園1万人コンサート」開催。ファンの集いを兼ねたこのコンサートは
「石野真子のドンとやってみよう、宿題なんか怖くない、1万人大集会」というタイトルで中高生をターゲットに開催したもので、
石野の歌を楽しむ一方、大学教授を招き夏休みの宿題対策を冗談を交えて行う企画でした。
集まったファンへのプレゼントとして夏休み期間のお天気情報(天候、気温、湿度)が配られました。
11月15日、日本歌謡大賞放送音楽新人賞受賞。
12月31日、第20回日本レコード大賞新人賞を受賞。
1979年12月31日、「第30回NHK紅白歌合戦」に『ジュリーがライバル』で初出場。
石野は紅組のトップバッターとなり、この年の紅白歌合戦1曲目を歌いました。
かなり売れていた印象ですが、シングル9作目「ハートで勝負」がオリコン週間ランキング自己最高の15位と、
ベスト10には1曲も入っていませんでした。
1980年8月30日 - 31日、日本テレビ系の24時間テレビ 愛は地球を救う3でメインパーソナリティーを務めました。
1981年6月、シンガーソングライター歌手の長渕剛と婚約・結婚を前提に交際宣言を発表。
その際石野は同年8月末をもって、歌手活動を含めた芸能界からの引退を表明しました。
7月26日、金沢市観光会館を皮切りに「Bye-Bye MAKO グッドラック・コンサート」が全国18ヵ所で公演。
8月30日、「Bye-Bye MAKO グッドラック・コンサート」最終日。
日本テレビ「日曜スペシャル・いよいよ引退!石野真子ラストコンサート」でその様子がテレビ生中継されました。
当時、女性アイドル歌手の「引退コンサート」としてテレビで生中継されたのは、山口百恵と石野の2人だけでした。
芸能活動引退直後の1981年9月、長渕剛との婚約記者会見を行う。
長渕は石野との関係を自身のシングル8作目「二人歩記(ふたりあるき)」という歌に残しています。
しかし結婚後の二人は、様々な見解の相違を表面化させていく。
結局二人の結婚生活は僅か2年持たずにピリオドが打たれた。
1983年3月、既に長渕と別居していた石野は、同年5月に長渕との離婚を決意、結果として石野の“芸能界引退”は一時的なものとなりました。
1983年5月、離婚と同時に芸能界へ復帰の記者会見を開き、本格的な芸能活動の再開を発表する。
1990年、舞台共演がきっかけで親しくなった広岡瞬と2度目の結婚をしたものの1996年に離婚。
2004年、テレビ朝日系列の特撮テレビドラマ『特捜戦隊デカレンジャー』に、白鳥スワン役でレギュラー出演。
2011年2月、ミュージカル『ヒロイン ?女たちよ タフであれ!?』に榊原郁恵、早見優、松本伊代とともに出演。
元アイドルグループ「ミューズ」が25年振りに再結成するというストーリーのミュージカル。
アイドルグループ解散後、番組レポーターなどを経て、メイド喫茶のオーナーとなった「ピーチ」役でした。
また、ダウンタウンの浜田雅功は、石野の熱狂的なファンであると公言し、頻繁にメールのやり取りをする間柄であることを浜田の番組『ごぶごぶ』に石野が電話出演した際に明かしています。
元歌手で俳優の嶋大輔は、アイドル時代の石野の親衛隊をしていたと語っています。
爆笑問題の太田光は、「石野真子の所属事務所にファンレターを送り、返信の葉書を本人から頂いた」と証言しています。
2011年にはイオン×ワコールが選ぶ「美胸大賞」(50代の部)を受賞しています。
現在も多方面で活躍する石野さん、これからも活躍も応援しています。
懐かしいディスコグラフティーと共に、お聴き頂ければ幸いです。

現在、僕や歌のパートナーの新二郎さんの大切な歌仲間であり大先輩でもある女性が癌と闘っています。
僕達は医師ではないので、彼女に対して出来る事に限りがあります。
そこで新二郎さんと相談して、お百度参りの代わりに、
「昭和の歌姫100人を歌う」と題して僕はPOPSと歌謡曲、新二郎さんは演歌を中心に、
昭和デビューの女性ボーカリストの歌を100人カヴァーし、彼女の完治を願いたいと思います。
癌の治療はとても辛いですが、現在の医療はかなり進歩しています。
どうか一日も早く完治しますように。
昭和の歌姫たちの懐かしいディスコグラフティーと共に、お聴き頂ければ幸いです。


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初めて聴いてくださった方へ。
改めまして、はじめまして。伸(nobu)と言います。
私のページに来て下さり、有難う御座います。

僕はもう10年以上前になりますが「喉頭癌(声帯にできる癌)」を患い、声を失いかけました。
その1年前に初めての癌を患い、再発からの転移でした。
定期健診を欠かさなかったお陰で、初期の段階で見つかり、
すぐに処置をして頂き助けて頂きました。
しかし、暫くの間、歌うどころか喋る事すらままならない状況になりました。
当時の私は、喋る事も仕事の一つだったため、
それはとても辛く悲しかったです。
もしかしたら、もう「声」と言うものには頼れないのでは?
そんな思いを持ちました。
声が出せなくたって目だって見える。耳だって聞こえる。
体だって自由に動く。
何だって出来るじゃないか!そんな風に自分に言い聞かせた時もありました。

医師の「ある程度までは声は戻るよ」と言う言葉を信じ
喉を使っても良いと言われてからは、リハビリをして
毎日、家の近所の日の落ちた船着き場に車を止めて
大好きな中島みゆきさんの曲や、徳永英明さんの曲を聴きながら声を出す練習をしました。
思うように声が出なくて悔しくて泣いて車を叩いた日もありました。
誰にも聞かれたく見られたくなかった。
だから車の中は僕のリハビリ室でした。

その甲斐あって、医師も驚くほど回復し、
現在では喋るだけでなく歌う事も出来るまでになりました。
確かに、以前の自分の声ではなくなりましたし
今でも1曲全てを声もかすれずに歌う事は難しい時もあります。
でも、大好きな歌が歌えます。
友人の医師達や支えてくれた周りの人達に心から感謝をしています。
そして無理だと言う僕に、何度ももう一度歌おうと強く勧めてくれた大親友にも!

そして2013年7月にまた、新たに疾患が見つかりました。
とても症例の少ない難病だと告げられ、同年10月には障害者となりました。その為、定期的に入院生活を強いられています。
明日はどうなるか解りません。

「負けたら終わり ではなく あきらめたら終わり」
「笑って生きるも一日、泣いて生きるも一日、どうせなら笑顔で」
この二つは私の座右の銘です。

世の中には、色んな病や悩みなどと闘っている人達が沢山いると思います。どうか諦めないで下さい。

私は大好きな歌を笑顔で歌ってここに載せて行きます。
ここには沢山の歌の上手な方々が掲載されています。
私の歌はその方々には程遠いものです。
でも、歌えるようになりました。
良かったら聴いてみて下さい。
そして何かの切っ掛けにして頂けたら嬉しいです。
ありがとうございました。

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