海界の村を歩く 太平洋 三宅島(東京都)

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東京の南約180kmの太平洋上に位置し、雄山(813m)を中心とした、東西7.5km、南北8.6kmの火山島。自然環境に恵まれ、緑も豊かで、バードウォッチング、磯釣り、ダイビングのポイントが数多く点在する。そして最近ではイルカウォッチングも加わった。江戸時代は流刑の島となり、1400人ほどが流されている。約50年おきに大噴火を繰り返している活火山で、昭和58年10月の噴火で、南西部の阿古集落が溶岩で埋まり、火山湖沼の新澪池も様相を一変させている一方で、天然記念物アカコッコなどバードサンクチュアリの名に恥じない花と鳥の島だ。(「シマダス」より)
阿古は島の南西の位置にある。阿古地区の住民は、いち早く観光産業に着目し、自然の恵みを巧みに利用して島内唯一の温泉郷を築き上げ隆盛を極めていた。昭和58年10月3日(1983年)、大音響とともに二男山を吹き飛ばした噴火は膨大な量の溶岩を流出し、山谷を埋め尽くし、眼下一帯に広がる阿古集落を襲った。19haにのぼる溶岩原の下には約400戸の民家が埋没しており、海岸沿いに難を逃れた人家が僅かに往時を偲ばせている。
伊ヶ谷集落は、江戸時代からの港町である。元和9年(1623年)徳川家光が三代将軍を継いだ年、幕府は伊ヶ谷大船戸湾が自然に恵まれた良港であることから、御用船の取り扱いを開始した。伊ヶ谷村はこれを契機として三宅島交通の要衝となり、御用船の出入港を管理監督するために享保8年(1723年)に至って陣屋が設置された。陣屋は、大船戸湾普請に要する普請米や万一の事態に備えての幕府備蓄米を収納するなどのために設置されたが、その後幕府から流刑者などが増加したため地役人が常駐するようになり、時には関所のような役割を果たすことになった。
神着集落には「三宅島役所」という東京都指定史跡があり、三宅島役人の壬生氏の茅葺き家屋が残っている。壬生氏は、島内の神社を統括する神官でもあり、御笏神社地内に居を構えている。周囲の町並みは、海岸から拾われたごろた石(丸石)による石垣が特徴である。一方、大久保浜は海岸線に沿る砂浜と平行した集落で、海水浴の観光客を相手にしていたのかかつて旅館だったような建物がある。
坪田は、島の南東にあり、海の向こうに御蔵島を眺める集落である。特徴は、火山の島らしく溶岩を使った石垣石塀の町並みで、同じ石を使った蔵も見られる。

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