KATO D51 C57重連 室蘭本線普通列車

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D51形蒸気機関車は、国鉄の前身である鉄道省が設計、製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車です。
 主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しました。ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大記録となっており、この記録は現在も更新されていません。
 この他に、台湾総督府鉄道向けに32両が製造され、戦後はソビエト連邦サハリン州鉄道向けに30両、台湾鉄路管理局向けに5両、朝鮮戦争における国連軍向けの標準軌仕様機が2両製造されており、製造総数は1,184両に及びます。
 また、1987(昭和62)年4月の国鉄分割民営化時には、西日本旅客鉄道(JR西日本)に1両(200号機)が継承され、翌1988(昭和63)年には東日本旅客鉄道(JR東日本)で1両(498号機)が復籍し、現在この2両が動態保存されています。JR東日本の498号機は復籍後の初仕業で来日中のオリエント急行を牽引して復活、西日本の200号機は2017(平成29)年に山口線のSLやまぐち号で、本線運転に復帰しました。
 現場の機関士にも操作性の良さから人気があり「デゴイチ」の愛称は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなりました。
 1929(昭和4)年に始まった世界恐慌、その影響で日本国内で発生した昭和恐慌により、1930年代前半の日本における鉄道輸送量は低下していました。そのため、恐慌発生以前に計画されていた貨物用の新形機関車の製造は中断されていました。
 その後、景気が好転して輸送量の回復傾向が顕著になってきたため、改めて新形の貨物用機関車が求められました。そこで1936(昭和11)年から製造されたのが本形式です。C11形のボイラーで実用化された電気溶接技術を応用して製造され、当時の設計主任である島秀雄は「多くの形式の設計を手掛けた中でも、一番の会心作」として同形式を挙げています。
 初期に製造された95両(1次形)は、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水加熱器をレール方向に置き、それらを覆う長いキセ(着せ=覆い)持つことが外観上の特徴です。その後の通常形ドームとの区別のため「半流線形形」、略して「半流形」と呼ばれるようになり、その形状から「ナメクジ」とも呼ばれました。また、汽車製造会社製の22・23号機はドームがさらに運転台まで延びているため「全流線形形」、略して「全流形」、「おおナメクジ」、「スーパーナメクジ」と呼ばれていました。この両機は後に保守上の都合等から通常の「ナメクジ」型に改装されました。また、このグループは運転台の奥行きが標準形に比して短くなっています。D50形よりも前頭部を短くしたために後部が重くなってしまい、そのバランスをとるために小型化したものと言われています。ゆったりした運転台を持つD50形に比べ乗務員の労働環境として劣悪で、「D50形では広い運転台の片隅に置いておいた弁当が傷むことはなかったが、狭いD51形の運転台では置いておいた弁当が(ボイラーの熱で)腐ることがあった」といった証言が残されているようですが、D50とD51の乗務員用ツールボックスは座席下にあるため信憑性に疑問が残ります。また、D50の運転室はボイラーとの重なりが多く、本機ではボイラーの熱を避けるため必要最低限の広さとしていました。
 第1動軸から順に軸重が14.99 t・14.80 t・14.79 t・14.21 tと第1動軸を重く第4動軸を軽く配分してあり、牽き出し時に重心が後へ移動することで各動軸の軸重が平均化されるため空転が発生しにくい設計だったD50形と比較して、本形式の1次形(ナメクジ)は動軸の重量配分に明らかな不備があり、動軸重が第1動軸から順に13.17 t・14.30 t・14.23 t・14.30 tで列車牽き出し時などの過荷重状態で第1動軸の軸重が低下し額面上の性能向上にもかかわらず空転が頻発する傾向が強かったため、乗務員の評価は良くなかったとされています。
 ナメクジ形は、構造上汎用形の集煙装置が取り付けられないため、配置が区別されており、標準形と同仕様へ改造された例も見られます。なお、この呼び名は当初は鉄道ファンの間での通称だったが、後には初期形D51を区別する呼称として国鉄内部でも用いられました。その後、山口線で蒸気機関車運転の復活が決定された際、D51 1号機が復活予定候補に挙がりましたが、集煙装置が取付不可だったために予定機から外されました。
 前述のとおりナメクジ形は重量配分が悪く、重量列車牽き出し時に空転が多発する傾向があり、牽き出し時の重心移動を考慮すると本来一番重く設定されてしかるべき第1動軸の軸重が13.17tと第2 - 第4動軸に比して1t以上軽く、適正な重量配分ではありませんでした。そのため、1937・1938年に浜松工場で製造された86 - 90号機において改良試作が行われ、給水暖め器を煙突前に枕木方向に載せ、担いばねの釣合梁(イコライザー)の支点位置を変更して動輪重量の配分を可能な限り修正する、動力式逆転機を手動式に変更するなどの設計変更が行われました。
 これによりナメクジ形で問題とされた点は概ね改善されました。ただし、ナメクジ形と比較すれば改善されてはいたものの、先行形式であるD50形と比較すると動輪、とくに牽き出し時に実効軸重が低下する第1動輪の粘着性能が劣ることに変わりはありませんでした。(標準形の昇圧後で動軸重は第1動軸から順に14.73t・14.77t・14.95t・15.11t。つまり、ナメクジ(1次)形と比較して多少の改善はあったものの第1動軸から順に第4動軸まで軸重が順に増えていくという、重量列車や勾配線での列車の牽き出し時に問題となる軸重の配分状況に変化はない)。またボイラー圧力の引き上げなどによりシリンダー出力が増大していたこともあって、空転多発の一因となっていました。そのため、粘着性能の良否が直接列車の定時運行に影響する北陸本線や信越線などの勾配線では、敦賀機関区を筆頭に改良版であるこの標準形さえ忌避し、額面上の性能では劣るが空転しにくいD50形の配置を強く要望する機関区が少なからず存在しました。
 こうした否定的な状態が発生した理由は、D50においても勾配で立ち往生や逆行を頻発させており、本機が配備される約10年前の1928年には二両のD50が牽引する貨物列車がトンネルで空転を起こし、救援に向かった列車も立ち往生してしまい全員が窒息による危篤状態に陥り、3名(5名説もあり)が死亡、12名が昏倒する悲惨な事故を起こしていたためでした。
 この動画では1973年頃の室蘭本線の普通列車を再現しています。

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