いまを生きる。千日回峰行満業 酒井 雄哉阿闍梨のいまを生きる公演

Описание к видео いまを生きる。千日回峰行満業 酒井 雄哉阿闍梨のいまを生きる公演

酒井 雄哉(さかい ゆうさい、1926年(大正15年)9月5日 - 2013年(平成25年)9月23日 )は、天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した行者として知られる。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正、比叡山一山 飯室谷不動堂長寿院住職を務めた。

経歴
誕生
1926年(大正15年)、大阪市玉造で、10人兄弟の長男として生まれる。5歳の時、一家で東京へ移る。旧制麻布中学を受験したが失敗し、1941年(昭和16年)、慶應義塾商業学校(慶應義塾大学の夜間商業学校)に入学、同校卒。落第生で卒業が危ぶまれたため、担任教員に軍隊入隊を勧められる。当時は入隊と引き換えに卒業が認められる制度があった(繰り上げ卒業)。

入隊
1944年(昭和19年)、熊本県人吉の予科練に入隊。そこで半年間の訓練を受けた後、宮崎県の宮崎海軍航空隊(後の松島海軍航空隊、陸上攻撃機)所属を経て、鹿児島県の鹿屋飛行場に移る。同僚が特別攻撃隊員として、次々と戦死していく中、鹿屋飛行場も連日のように米軍機による空襲を受ける。ある日、訓練の最中に米軍の機銃掃射による猛攻撃を受け、逃げ損ねるが、田んぼの溝に落ち、奇跡的に助かる。少し前まで元気だった優秀な仲間が命を失い、自身は生き残った体験から、世の無常を味わう。

戦後
戦後は、法政大学の図書館職員となり、その働きぶりが評価され、大学の教授から、法政大学入学を勧められる。自身もその気になり、法政大学受験を決意。願書を出すため、出身校である慶應義塾商業学校の成績証明書を取りに行くも、不安になり、中を見ると、品行が良くないなど、ろくなことが書かれていないことに愕然とし、受験を断念。同時に職場も放棄してしまう。

その後、父親が始めたラーメン屋を手伝い、繁盛したものの、約5年で火事で廃業。次に、父親と株売買の代理店を始めるが、スターリン暴落による大損害で、借金取りに追われる始末。その後も、そば屋の店員、菓子屋のセールスマンなど、職を転々とする。

33歳の時、従妹と結婚するが、新婚早々、妻が大阪の実家に帰ってしまう。連れ戻そうと迎えに行ったが、しばらくして妻がガス自殺を遂げる。わずか2ヶ月の結婚生活だった。以後、抜け殻のような生活を送る。

比叡山へ
ある日、叔母と比叡山を訪ねたことがきっかけとなり、折に触れて通うようになる。1965年(昭和40年)、39歳のとき出家、得度。ここが最後の砦と自覚し、十代、二十代の若者に混じり、天台宗学の理論と実践を学ぶ。叡山学院を首席で卒業。天台座主賞も受賞する。千日回峰行に挑む前には、明治時代に死者が出て以来、中断していた荒行で知られる常行三昧も達成している。

千日回峰行
1973年(昭和48年)より千日回峰行を開始し、1980年(昭和55年)10月に満行した。この行の様子は1979年(昭和54年)1月5日、NHK特集『行~比叡山・千日回峰~』で放送された。

しかし酒井はこれに満足せず、半年後に2度目の千日回峰行に入った。そして、1987年(昭和62年)7月、60歳という最高齢で2度目の満行を達成した。2度の千日回峰行を達成した者は、1000年を越える比叡山の歴史の中でも3人しかいない。

その後
1990年(平成2年)、15年ぶりに下山。厳しい護摩供のほか国内各地、中国五台山、エジプト・シナイ山などを巡礼。1995年(平成7年)にはバチカンでローマ法王ヨハネ・パウロ2世にも謁見している。同年、仏教伝道文化賞(功労賞)受賞。晩年は、比叡山麓の飯室谷不動堂に住み活動した。

2008年(平成20年)にはエジプトを訪問した。

2013年(平成25年)、心不全のため死去[1]。87歳没。

Комментарии

Информация по комментариям в разработке