【合戦解説】三州錯乱【完結編】 〜東三河侵攻戦〜 松平 vs 今川 〜 遠江の混乱に乗じ家康は東三河の切り崩しにかかる 〜

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時は戦国時代 後期

偉大な祖父 松平清康を超える領主となることを大志に掲げる松平元康(家康)は、尾張の織田信長と同盟を結ぶ道を選び 今川派国衆の切り崩しに動いた。
永禄3年(1560)から永禄5年(1562)にかけ 吉良義昭、鵜殿長照、牧野成定、小原鎮実といった今川派諸将との戦いが続き、遂には 大軍を率い三河に入った 今川家当主 今川氏真を撤退させる戦果を挙げる。
氏真の撤退を機に 東三河の征圧へと動きたい家康であったが、戦に次ぐ戦の弊害が本領 西三河で起きてしまった。
幽閉していた吉良義昭が手薄となっていた東条城を乗っ取り挙兵。
また かねてより家康の強引な戦略に反対していた酒井忠尚や桜井松平も反旗を翻した。
さらには浄土真宗寺院の倉が荒らされたことをきっかけに 重税に苦しんでいた一向門徒らが一斉に蜂起。その中には 蜂屋貞次や渡辺守綱といった 松平家臣の姿もあり、本願寺派による一向一揆の拡大を何よりも恐れた家康は、浄土宗の教えである「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の言葉を馬印に 一向門徒との戦いを決断。
永禄7年(1564)1月 馬頭原の戦いで 蜂屋や渡辺らが率いる武闘派門徒衆を壊滅させたことで一向門徒らの士気は低下し、翌 2月に和議が結ばれ 一揆勃発からおよそ3ヶ月でのスピード決着となった。

一方その頃 東三河の抑えを託されている酒井忠次は、今川領 最前線の出城である 八幡砦の攻略策を練っていた…

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※通説に基づきつつも一部ユキムラ流に脚色を加えた合戦解説となります
※合戦や物語の出来事は諸説あります
※制作の都合上全ての情報や登場武将を網羅してはおりません
※登場人物名は改称時期に拘らずわかり易い表記で記載しております
※演出時に大きな音が出る場合があります
※2023年時点での歴史資料を元に作成しております

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