漫才【今いくよ・くるよ】(8)|残しておきたい昭和の演芸

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今いくよ・今くるよ
「今いくよ・くるよ」の漫才をお楽しみください。

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残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね
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今いくよ・くるよ
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今いくよ(1947年12月3日 - 2015年5月28日)本名:里谷正子
今くるよ(1947年6月17日 )本名:酒井 スエ子

京都明徳高等学校時代、2人共ソフトボール部に所属していた。今いくよがセンター(キャプテン)、今くるよはマネージャー(当初キャッチャー)。3年生の時、全国大会で準優勝。
1970年、OLを辞め、島田洋介・今喜多代に弟子入り。弟子入り3ヶ月目、師匠についていった巡業先で急病で出られなくなった女流のマジシャンの穴埋めで初舞台を踏んだ。その直後のうめだ花月の公演に「スエ子・正子」のコンビ名で出演。以降もスポットライトが当たることがなく、1980年になってようやく『花王名人劇場』に出演するチャンスを得たものの、吉本興業から「これでウケなかったら最後」と通告されていた。リハーサルやネタ見せの段階では全く受けなかったが、本番になって今くるよがお腹を叩いたところこれが受け、2人の漫才はカットされずに全国放送された。翌日よりテレビ、ラジオその他からの出演依頼が殺到。苦難の末、ようやく本格女流漫才師として日の目を見ることとなった。その後1984年には上方漫才大賞を、1988年には花王名人大賞を受賞している。
1994年9月4日に関西国際空港が開港した際には、前夜大阪国際空港からの最後の国際線として出発しグアム国際空港を経由し関西国際空港の到着第1便となる「伊丹からいくよ、関空へくるよ」と銘打った日本航空のチャーター機に搭乗し、飛行中の機内で漫才を披露した。
2009年9月22日、なんばグランド花月での公演中に今くるよが引きつけを起こし倒れ、大阪市内の病院へ緊急搬送された。その後、検査入院となり心筋梗塞と診断。退院した今くるよは12月1日に『ラジオよしもと むっちゃ元気スーパー!』(ラジオ大阪)で復帰を果たす。
師匠や先輩から「女芸人が結婚したら終わり」と冗談交じりに言われた事を守り抜き、今いくよは生涯独身を貫いた。結婚予定がどちらもあったが、破談させている。
太っている今くるよと痩せている今いくよが、互いの体型や容姿・ファッションをけなし合うネタをよく演じたが、他人に対しては褒めることはあっても悪口を言ったり笑いに使うことはほとんどなかった。そのため、老若男女を問わず広いファンを持っていた。2人の親交は40年以上にわたって続いたが、コンビ仲がとてもよかったことで知られていた。
他にも今いくよの厚化粧をネタに、今くるよが顔にファンデーションをはたくような仕草や、漫才途中から必ず今くるよの派手で大きな衣装がズレてくるので、すそを何度も持ち上げての漫才をする。
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