菅野由弘:聲明「十牛図」鎮魂と再生への祈り〜心の四十五声  Yoshihiro Kanno : jugyuzu

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菅野由弘 Yoshihiro kanno
聲明:十牛図:鎮魂と再生への祈り〜心の四十五声
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作品解説:鎮魂と再生への祈り「十牛図」—心の四十五声—

菅野由弘

 国立劇場開場45周年記念の委嘱作品として作曲した、十枚の図と各図に付けられた詩からなる「十牛図」をテキストとした新作声明であり、本日が世界初演となる。「十牛図」10章に続けて、エピローグとして「般若心経」を付け加えている。「十牛図」は、牛になぞらえた「何か」を探す旅であるが、いわゆるサクセスストーリーではない。第一章は喪失の確認、第二章からは一歩ずつ「何か」に向かって進み、着実に歩を進めて行くのだが、第六章で家に到着、第七章で異次元への空間が拓かれ、第八章では全てが「無」になる。この「無」も全ての世界を包含した「無」であり、単に「何もない」のとは異なる。そして、八章で「蘇生」し、九章で元の世界に戻ってくる。既にそこは新たな世界なのかも知れない、という展開で、帰結せず発散する世界の有りようなのである。これを受け、この作品と今日のお客様を着地させるエピローグとして何かが必要だと考えた時、「般若心経」が浮かんできた。空円窓の無の意味を想い出しつつ幕を閉じる。
 曲は、笙と空間的に配置された打ち物(打楽器)より始まる。打ち物は、舞台中央奥に一人、張り出し舞台の左右に各一人、そして2階席に一人配置している。僧侶は最初、会場内の客席に登場する。劇場内を「十牛図」の一つの図と捉え、空間的な音の有り様を、お客様と共有するところから始めたい。その後も、舞台の僧侶と、左右の張り出し舞台の僧侶の呼応による音響空間を作ることを意図している。また、テキストは「十牛図」の漢文書き下し文、漢語読みの読経、サンスクリット語訳からなる構成で、音楽的な「発音」の面白さと、声明が伝統の中に包含している国際性を活かしたいと思った。打ち物以外の楽器は、笙と龍笛が各一人のみだが、特に第六章では、「笛を吹く」記述がある。全くの私見だが、この笛が第七章の異次元への窓を開くように思えてならない。


第一:尋牛 牛を見失う(本来失ってはいない)

笙と打ち物により開始し、僧侶は客席に登場、読経が始まる。その後書き下し文による声明に移り、更に、サンスクリット語訳による呪文を唱える。

あてもなく草を払い、探し求める
川は広く山は遙か、路は更に深い
力尽き疲れ果てても、何も見つけることが出来ない
楓の樹に鳴く、秋のわびしい蟬の吟ずるを聞くのみ

ひたすら区区として外を探し回り
足元が深い泥田であることにも気づかない
沈み行く太陽と草の香りの中に
空しく豊作の歌を吟ず

もともと無いはずの足跡を、誰かが探し求める
誤って神仙の蔦かずらの奥深くに迷い入る
牛の鼻面を捕まえて帰ることになる旅人は
今は水辺、林の下に無言で佇む

第二:見跡(けんせき)=足跡を見つける(元々あった足跡に気づく)
声明の呼応による章。各宗派は、同じ旋律を奏するが、各宗派独特の節回しを活かしつつ進行する。

水辺や林の下には、沢山の足跡がついている
芳草が繁茂している様を、見たに違いない
深山の更に深い奥だったとしても
天に向いている鼻を、どうして隠せようか

仙人の住む枯木巌然には、差路が多い
草むらに足を取られ、非を覚えることが出来ようか
あなたの足が、足跡だけを追って行くならば
出会い頭の牛を、蹉過しかねない

牛を見つけた人は少なく、牛を覓める人は多い
山北山南が見えているのか
朝な夕なに同じ路を来たり去ったりする
それに気づけば、別に何ということもない

第三:見牛(けんぎゅう)=牛を見つける(声を頼りに、そして眼、耳、鼻、舌、身、意を)
問答(もんどう)形式による章

声に導かれて入ると、根源に出会う
眼、耳、鼻、舌、身、意識の六つの感覚が一つ一つを顕かにする
海水の塩分や、絵の具の中の膠のように
見えなくとも存在し、目を見開けば姿が見える

鶯は鳴き、日は暖か
風は穏やかにして、岸辺の柳は青々としている
此の場所より逃れる処はなし
森森たる牛の角は 画にもかけない美しさ

戴崇はそこから、素晴らしい画を描き上げた
細かく見ると、まだ心は描けていない

たちまち出会って牛を見る
此の牛は白牛ではない、また青牛でもない
自分から頷き 微笑む
ひときは優れた姿は、画には描けない

第四:得牛(とくぎゅう)=牛をつかまえる(捕まえたものの、牛は野生に戻っている)
梵語の章、サンスクリット語訳による

久しく郊外に隠れていた牛に、今日、巡り逢う
人は景色に見とれて牛に追いつけず、牛は草の芳香に恋して已まない
頑な心は奮い立ち、野生は健在である
心をほぐすには、鞭有るのみ

精神の限りを尽くし、牛を捕獲した
牛の強靱な心は、簡単には突き崩せない
ある時は高原に駆け上り、
またある時は、深い雲の中に逃げ込む

しっかり縄を握り、牛を放してはならない
多くの悪癖は、まだ取り除かれてはいない
徐々に鼻柱を掴んで引いて行けば
牛は首を廻して、元居た所を知りたがる

牛は帰家の路を見通している
緑の川、青い山にて、暫し道草を食う

第五:牧牛(ぼくぎゅう)=牛を放し飼いにする(自由に放ち飼い慣らす)
打ち物が周囲を回る中、速い読経形式で唱える

ある思いが少しでも起こると、後に別の想念が付いてくる
夢から覚めると真実が相成り、迷いは迷妄へと通じる
境によってそうなるのではなく、己の心が引き起こす
牛の綱を強く引き、疑義を挟む余地のないように

鞭と手綱を身から離してはならない
牛がほしいままに歩き塵埃に引き込まれそうだ
良く飼い慣らせば、すっかり純和する
手綱で拘束せずとも、自ら人に追う

牛は山林を自分の居場所と思い、身を寄せている
ある時は町に出て、紅塵の巷を踏む
人の畑を荒らすようなことはなく
往き来も背の上の人に労をかけることはない

第六:騎牛帰家(きぎゅうきか)=牛に乗って家に帰る(戦いは終わり、樵夫の歌、笛を吹く)
龍笛と笙が「童子の野曲」を奏し、声明は牧歌を唄う

戦いは終わり、捕らえることも放すことも最早ない
樵夫の歌う村歌を唱え、童子の野曲を笛で吹く
身を牛の背に横たえ、目は大空の彼方を見る
呼び返すことも、引き留めることも出来ない

牛に乗って、ぶらりぶらりと家路を目指せば
えびすの笛が、真っ赤な夕焼け雲を歌う
一拍、一吹きにも限りなく心がこもり
真に音楽を解する人には、口に出して褒める必要もない

岡の斜面を指さし、あれが我が家だと教える
たちまち桐の笛を吹いて、夕霞の中から姿を現す
突然調が変わり、家に還る調子になる
真に音楽を解する人は、伯牙の箏にも劣らない趣を感じる

第七:忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)=牛を忘れ人だけがいる(家に着き、牛の姿は人と同化する)
梵語による異界への章、明珍火箸と南部鈴による祓い

真理は二つはない、牛は仮の主題である
罠と兎が別物であるように、魚籠と魚も別なのである
金が金鉱より取り出され、月が雲を抜け出す
一筋の透明な月の光は、威音王仏、天地創造の遙か昔より射す

小屋に、山から追い出した牛はいない
蓑も笠もいらなくなった
行く行く歌い、行く行く楽しみ、何の拘束もない
天と地の間に、我が身の自由を得た

帰ってみれば、人生到るところ青山有り
自分も物も忘れて、一日中閑にしている
信ずるべき事は、高山の頂上の天界との通路は
人間界とは全く違う世界である、ということ

第八:人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)=人も牛もすべて姿を消す(全てが消え去り、無となる)
書き下し文声明、漢語読経、梵語声明、打ち物も総動員しての章、「無」はあらゆるものがそこに隠れている証として

迷いの気持ちは脱落し、悟りの心も無くなった
仏のいる世界に遊ぶ心も無く、仏のいない世界も走り去る

鞭も綱も人も牛も、全て姿を消した
青空は天高く、全ては音信不通となった
真っ赤な溶鉱炉の焰の中に、雪の入り込む余地はない
猫の子一匹居らぬ境地、やれうれしや、衆生の世界は空(くう)となった

金鎚一振りで虚空をこっぱみじんに撃砕する
凡も聖も足跡さえなく、行く路は通じていない
明月が宮殿を照らし、風は颯颯と吹く
百川の水が、残らず海に流れ込むように、そこが終着の地なのだ

第九:返本還源(へんぽんげんげん)=はじめに帰り、源に立ち還る(清らかな凝寂、蘇生)
「無」から「蘇生」へと向かう龍笛、笙、打ち物による短い間奏曲に続けて、「散華」を伴った清浄の章、伸びやかに。

本来清浄で、塵一つ無い
幻の世の栄枯を観察しつつ、無為の世界の寂まり返った境地にいる
幻とは違う、まして修持を必要としない
水は緑を湛え、山は青く
居ながらにして、成功と失敗を観る

庵の中にいると、外の物は見えない
川は茫々として果てしなく、花は紅く咲いている

昨夜、西の海中に沈んだ太陽は
朝、暁の空に天を紅く染めて昇る

第十:入鄽垂手(にってんすいしゅ)=町を廻り手をさげる(手をさしのべる)
異次元、もしくは異界からの使者を迎える。

瓢箪を提げて町に入り、杖をついて家に還る
酒屋、魚屋が、感化されて成仏させる

胸を露わし、足を裸足にして、街にやって来る
土をかぶり、灰をかぶりながら、顔中で笑いかける
神仙術を用いぬ本当の秘術によって
枯れ木に花を咲かせる

この男は異界より戻ってきたにちがいない
まぎれもなく、馬面とロバの顔
鉄棒を、風よりも速く一振りするだけで
どんな家も、全てを叩き壊してしまう

袖に隠した金槌が、真正面に振り下ろさせる
外国の言葉と笑い声が満ちあふれる
人と逢って、お互いを識らなかったことを理解すれば
弥勒菩薩の楼門も、八の字に扉を開く

エピローグ:般若心経

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