ご真骨はどう伝わった?日泰寺の歩み

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ご真骨はどう伝わった?
日泰寺の歩み、日泰寺の歴史を紹介します。



長い時を経てお釈迦さまのご遺骨は日泰寺に伝わりました。
日泰寺は日本国ータイ国友好のために建立された超宗派の国際寺院です。
どうしてわが国に伝わったのでしょう?
数奇な運命をたどった ご遺骨の旅のはじまりです。

お釈迦さまはネパールのルンビニーでお生まれになりました。
すぐに七歩歩いて右手で天を、左手で地を指し、天上天下唯我独尊と唱えました。
王宮で育ち結婚して子どももできました。

けれども城の外の世界を見て人間の生老病死の苦しみに気づかれました。
ある日、解決の道を求めて出家されました。

きびしい修行中悪魔が修行を断念するよう誘惑しました。
衰弱したお釈迦さまにスジャータという娘が乳粥を差し出し、元気を取り戻しました。
ブッダガヤーの菩提樹の下で瞑想し三十五歳でお悟りになりました。

その内容が深遠すぎて人に説くことをためらいました。
宇宙の創造主梵天の三度目の要請に応えて人に法(真理)を説き始めました。
生涯教えを説き続けたくさんの弟子ができました。

お釈迎さまは頭を北にし右わきを下にして臥されました。
「なおこころをゆるめることなく修行するように」と告げ、お亡くなりになりました。
八十歳でした。
風はやみ鳥獣は声をひそめ沙羅双樹の花は悲しみに散りました。

お釈迦さまの火葬場に、摩訶迦葉(まかかしょう)、阿難陀(あーなんだ)など十大弟子が最後のお別れに集まりました。
ご遺骨はマガダ国王、ヴェーサーリーや釈迦族など八つの部族に分骨されました。

八つの遺骨は、それぞれ舎利塔を建て、おごそかに供養されました。

八つの遺骨は釈尊が亡くなって二百年後インドを統一したアショーカ王によって、八万のお骨に分骨されました。
お釈迎さまの教えは世界中に広まりました。

・・・・・・長い年月が経ちました。
一八九八年、ネパールとの南境ピプラーワーの小高い丘で世紀の大発見がありました。
英国人ウイリアム・ペッぺが発掘調査を行ったどころ、古代インドの装飾品が、さらに掘り続けると棺があり、その中に砂岩の壺が発見されたのです。

壺には人骨が入っていました。
壺の表面にはインドの古代文字が刻印されていました。
考古学者が解読すると「シャカ族のお釈迦さまの遺骨である」と書かれていました。

あの八つに分骨されたご真骨の一つすなわち、お釈迦さまのホンモノのご遺骨であると結論づけられました。
お釈迎さまは歴史上実在した!
知らせは世界中を駆け巡りました。

バンコクでは三十余日にわたる豪勢な大法要が営まれ仏教をあつく信仰するタイ国民はわきかえりました。

ご真骨はインドからシャム(タイ国)にもたらされました。
白い象にのせて市内を練り歩き、王立ワット・プラケオ寺院の最高塔、ワット・サケット寺院に納められました。

駐タイ公使の稲垣満次郎氏は、タイ国同様仏教国である日本国にご真骨を分けて頂けないかと懇願しました。
チュラロンコン大王(ラーマ五世)は、十三宗五十六派[じゅうさんしゅうごじゅうろっぱ]の日本仏教会全体で守ってほしいと伝え、お骨の分与を快諾されました。

一九〇〇年(明治三十三)ご真骨を迎える帝国仏教会の奉迎使節団が結成されました。
真宗大谷派の大谷光演師を代表に、日置黙仙師、藤島了穏師、ほか随行者合わせて十八人。
日本郵船の博多丸に乗り、神戸港よりバンコクに出発しました。

タイ国に着くと 王宮寺院ワットポーにて、ご真骨の贈与式典が行われました。
ご真骨は贈与されました。
またチェラロンコン大王よりタイ国の宝として千年の歴史を持つ金銅釈迦牟尼仏像が寄贈されました。
今も日泰寺のご本尊としてまつられています。

ご真骨を無事日本国へ持ち帰ると、仮安置所に定められた京都・妙法院(三十三間堂)へ向かいました。
行列は僧侶を含めておよそ三万人、ほら貝や尺八が吹かれ、沿道は参拝する信者であふれかえりました。

ご真骨を納めることを目的に「日本大菩提会」が結成され、全国で候補地が挙がりました。
名古屋では仏教会、財界、官界から誘致に立ち上がりました。
かつて名古屋区長(今の名古屋市長)だった吉田禄在氏が市民をまとめ上げ、ご真骨の奉安地を名古屋に決定しました。
一九〇三年(明治三十六)ついに超宗派仏教寺院、日暹寺(にっせんじ)(現日泰寺)の設立認可が下り、一九〇四年建立されました。
広大な土地を寄進したのは愛知郡田代村村長の加藤慶二氏、寺院創建に尽力したのは豪商、三輪常七(みわ つねしち)氏でした。
山号の覚王山は「悟りを開いた人」つまり「お釈迦さま」を、「日」は日本国、「暹」はシャム(タイ国)を意味しています。

一九一八年(大正七)、ご真骨を納める塔として日暹寺(日泰寺)奉安塔が建立されました。
設計は東京大学の伊東忠太教授に依頼し、仏教美術の発祥地にちなんでガンダーラ様式に設計されました。

落慶法要は五日間、最終日にはタイ国使節団奉迎師であった日置黙仙師[ひおきもくせんし]が、ご真骨を納めました。ご真骨奉迎にかかわったすべての人に感謝の意を表しました。

一九三九年(昭和十四)、シャムは国名をタイと改めました。
タイは「大いなる国」を意味し、のちに「自由の国」を表す言葉になりました。
日選寺も日泰寺と改称されました。
名古屋駅は乗客数が飛躍的に伸びました。
名古屋駅から覚王山まで市電の直通運転が始まりました。
日泰寺の東に東山公園ができ、名古屋市の今日の発展の礎が築かれました。

ご真骨の旅は常に戦争と隣り合わせでした。
一九四二年(昭和十七)、完成以来一度も鳴らされなかった日泰寺の巨大梵鐘[ぼんしょう]に「撞きはじめと聞き納め」の法要が営まれました。
名古屋空襲が激化、軍需用金属が不足し大梵鐘が引き渡されたのです。

ドォーンと重く低い音が地を這うように伝わりました。
たった一度きり鳴った大梵鐘は破壊され、四日市の軍需工場に運ばれました。

いつのころからか、日泰寺では、弘法大師の命日である毎月二十一日に縁日が開かれるようになりました。
一九五〇年(昭和二十五)日泰寺のご真骨奉迎五十周年の法要が営まれました。
ことのほか境内の縁日は多くの市民で賑わいました。
日泰寺は戦後復興を遂げたのです。

日泰寺が創立されてから長い年月が経ちました。本堂はひどく荒れていました。
一九八四年(昭和五十九)、日泰寺と信徒総代が、経済界に寄進をお願いし、新本堂が完成しました。
タイ国―日本国友好のお寺で、タイ様式を取り入れ、日本の風土になじむ新本堂ができあがりました。
落慶に合わせ新本堂正面には、「釈迦牟尼仏」と書かれた勅額が飾られています。

本堂西側に日タイ修好百周年記念としてチュラロンコン大王の銅像が建立されました。
タイ国では国王の肖像や彫刻は崇拝の対象になっているため、建立にはタイ王室の認可が必要でした。

当時のプミポン国王は、大王に対する深い崇敬とご孝心があり、銅像建立の勅許が得られました。除幕式には、仏典に天上界に咲く花と賛美されるカイコウズの苗木が植えられました。

お釈迦様のご真骨はチュラロンコン大王から日本国民に贈られた日本国仏教徒の至宝です。

日泰寺山門は、お釈迎さまの臨終と火葬に立ち会った二人の弟子が、今も仁王像としてご真骨を見守り続けています。



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覚王山 日泰寺
Kakuozan Nittaiji
〒464-0057 愛知県名古屋市千種区法王町1-1
★お釈迦様の御真骨が眠る日本唯一のお寺★
https://www.nittaiji.or.jp/
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