日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/7/10)

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2024年7月10日(水)

【旧約聖書】
これから後も私が神である。私の手から救い出せる者はない。私が実行すれば、誰が元に戻せようか。イザ43:13(協)

【新約聖書】
ですから、誰も人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。Iコリ3:21,23(協)

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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。

釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。

使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。

*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。

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 福沢諭吉は『学問のすすめ』のなかで、次のように書き記しています。「常に人を恐れ人にへつらう者は、次第にこれに慣れ、(中略)恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見れば、ただ腰を屈するのみ。」つまり、人を頼りにしてばかりいると、卑屈になって人にへつらい、お世辞を言うだけの腰砕けになってしまう、ということです。自由で平等な世の中を求めるならば、民はこのような「無気無力の鉄面皮」を脱ぎ捨てて、まずは人として独立しなければならない、これが福沢諭吉の主張です。『学問のすすめ』が出版され始めてから約150年が経っていますが、この言葉が今の私たちの心にも響いて来るということは、私たちは本質的にはこの150年の間に何も変わっていないということです。

 使徒パウロはコリントの信徒への手紙で、次のように言います。「ですから、誰も人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」コリント教会には、教会内グループの対立があったそうですが、そのような党派争いの根底には、人間的名声になびく人間崇拝があります。そして、人間崇拝は、人間が人間に隷属するという問題を生み出します。だから、「誰も人間を誇ってはならない」というのは、その人間崇拝、党派対立への戒めであり、すべての人間は自由であることを、私たち皆がキリストのもの、神さまのものであることを述べて、明らかにしています。

 しかし現実はシビアです。誰が私たちの生活を守ってくれるのかと考えてしまいます。問題は、そのような考え方に慣れてしまうと、福沢諭吉が指摘するように、私たちはただ人にへつらい、恥もなく、言うべきことも言わず、人として自立することができなくなるということです。国民の気質がそのようになってしまえば、諸外国からは足元を見られることになるでしょうし、現実にはすでにそのようになっています。だから、私たちは人を恐れるのではなく、神さまを畏れたいと思います。預言者イザヤは言います。「これから後も私が神である。私の手から救い出せる者はない。私が実行すれば、誰が元に戻せようか。」神さまのものとなった私たちを、奪い取ることのできる人間はいないのです。私たちは神さまのもの。その信仰は、私たちを自分の足で立たせ、自由な境地へと導いてくれるのです。

日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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