日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/7/13)

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2024年7月13日(土)

【旧約聖書】
誰が初めから代々の人々に呼びかけたのか。主である私が初めであり、また終わりと共にある。イザ41:4(ド)

【新約聖書】
恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。黙1:17-18(協)

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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。

釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。

使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。

*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。

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 生命がいつ始まったのか、というのは難しい問いです。生命は今日も生まれ続けているのですが、人が子どもを産む、猫が子猫を産む、植物の種が目を出す、といった新しい生命の誕生は、厳密に言えば、生命から生命が生まれているのであって、ゼロから生命が始まったのではありません。あくまでも、生命というタスキを次に手渡しているに過ぎません。生命はタスキリレーである。そう考えますと、生命の起源までずっと遡っていくと、一体どこに行きつくのでしょうか。生命の始まり、それを私たちは神さまに行きつくと考えています。だから、「命の源である神さま」と呼びかけるのです。

 作家の姜信子さんは、歴史社会学者の山内明美さんとの往復書簡『忘却の野に春を想う』という書籍の中で、東日本大震災で壊滅的な打撃を受けた三陸沿岸は、復興したとは言われていますが、人影もまばらな人工的な景色。それを見て、ハンセン病療養所のことを思うと言います。療養所は今では多くが閉じられていますが、ここでは数多くの詩が生まれました。宗教や詩といった芸術は、閉ざされた後、断たれた後、発生時のゼロ地点へ押し戻され、そこから種を蒔くように首をもたげるはずだと言います。宗教や芸術といった、人の心に刻まれるものは、形としては消え失せても、またそこから新しい芽が出てくるのです。そして、「『はじまり』は『終わり』を知る者によって開かれる。これは絶望のそこに潜む希望です」と書き記しています。

 私たちは生命の始まりを詳しくは知りません。それを知っているのは神さまただお一人です。だから、はじまりを知っている神さまは終わりを知っておられる。終わりを知っているから、はじまりを開くことができたのです。ヨハネの黙示録で、神さまは次のようにおっしゃいます。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。」神さまだけが、私たちの最後を知っています。死を迎えた後のことを知っておられるのです。その神さまが、開口一番「恐れるな」と言われているのです。ですから私たちは、始まりから最後までを知っておられる神さまを信じて、「恐れな」という御言葉を信じたいと思います。聖書は一貫して、私たちに「恐れるな」と語りかけてくれています。何もしなければ、すぐに恐れてしまう私たちです。自分がいずれ迎える死のことを考えると、怖くて仕方がないのです。ですから、恐れなくていいというのは、私たちの考え方からは出てこない言葉なのです。神さまは預言者たちを通して、恐れずに生きるように伝え続けてくださいました。預言者イザヤは語ります。「誰が初めから代々の人々に呼びかけたのか。主である私が初めであり、また終わりと共にある。」私たちは、はじめと終わりを知る神さまに信頼して、恐れることなく、上を向いて今日の一日を過ごしてまいりたいと願います。

日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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